「とにかく携帯を返せ」
高杉は何度目かの要求を口にした。
神威と名乗った餓鬼はそんな高杉を見つめ張り付けたような笑みを浮かべるのみだ。
高杉は今ケットを被ったままその下は全裸というなんとも云えない状態であの悪夢のリビングのソファに座らされている。
昨日散々汚れていた床はもうその痕も無く、匂いも何もなかったように綺麗だ。
「あと服も寄越せ、財布の中身もカード以外は欲しけりゃやるから俺を帰せ」
高杉はそれを眺めながらもまた要求を口にする。けれども聴いているのか聴いていないのか、高杉を無視してにこやかな表情のまま神威は慣れた手付きで茶器に湯を並々と注いだ。
中国式というのか、よくわからないがそういうやつだ。
神威は小さな急須の蓋を閉め更にその上からも下の皿にあふれるまで湯を注ぐ。
その自然な動作から恐らくこの子供も周りの男達同様異国の人間なのだと高杉は理解した。
茶葉の香りが部屋いっぱいに広がり、少し安堵する。
つい一日か二日前まで汚濁にまみれていた部屋とは思えない。
高杉はソファに沈み込みながらもう一度知りたいことを口にした。
「とにかく今は何日なんだ」
「いいからこれ飲みなよ、今後の話もあるし、落ち着いたら?」
さらっとそんなことを云う餓鬼に高杉は頭に血が昇る。
立ち上がりクソ生意気な餓鬼の胸倉をつかもうとして傍らに佇む昨日の男にそれを阻まれた。
「阿伏兎」
あぶと、と餓鬼が云う。どうやらこの男は阿伏兎と云うらしい。
阿伏兎はそのまま神威の背後に下がり、それから神威は高杉に淹れたての茶を差し出した。
「飲みなよ、胃にも良いから」
云われるままに小さな湯呑らしきものを受け取り高杉はそれを口にした。
「美味い」
悪くは無い。素直な高杉の感想に神威は機嫌が良さそうに笑みを浮かべた。
先程の張り付けたような笑みより幾分か年相応に見えるそれに高杉はやや落ち着きを取り戻す。
美味い茶だ。
さっぱりとした味は空の胃に染み入るようで高杉は漸くこのいかれた状況の中から人間らしさを取り戻した気がした。
とにかく酷い状態だった。あんな醜態をさらしたのは学生時代以来か。
もう大人だ。社会に出て何年経ったと思っている。こんな餓鬼に好い様にされていい訳が無い。
とにかく世話になったのは高杉なのだから礼は云う。大切なものを失った気もするがこの際それは水に流す。
そして服を借りて、家に戻り会社に連絡をする。迅速に高杉はそれを成さねばならない。
「おい、いい加減俺を解放しろ、連絡しないといけないところもある、とにかく携帯だけは返せ」
神威は自分の分のお茶をにこやかに飲みながら反対側にあるソファに高杉と対面する状態で座った。
ゆっくりとお茶を飲み干し、一息吐いてから神威は云い放つ。
「まだわかっていないみたいだからもう一度云うよ、」
ことり、と机に空の湯呑を置き神威は云った。
「あんたは俺のものなんだ」
「いつ俺がてめぇのものになった」
「あり?云ってたよ、高杉何度もさぁ、ビデオまわしといたらよかったなぁ、阿伏兎、今度撮るから用意しといてよ。まあとにかく高杉はさ此処でも風呂場でも、何度も俺のものになるって承諾したよ。そもそも俺があんたに聲をかけた時、あんたが俺のものになるなら助けてあげるって云ったらあんたが頷いたんだ」
言葉に詰まる。
確かに云われてみればそんな問答をした気もするが、いくら言質を取ったところで証拠は無いしこちらは泥酔していたのだ。
契約書を交わしたわけでなし、高杉をこうして拘束する権利は無い筈だ。
その筈だが、神威はにこやかに高杉を見据えたまま、目線を反らさない。
「仮に俺がお前のものになると承諾したにしてもあれは泥酔していたからであって、こうされる謂れはねぇよ」
どん、と高杉が湯呑を勢いよく机に置けば、新たにお代わりとして茶が注がれる。
他に場を持たせられないので高杉は憤りのままに再びそれを口にした。
「泥酔してたにしてもさ、約束は守らないとネ」
「俺ぁ、てめぇみたいな餓鬼と違って忙しいんだ、とにかく携帯は返せ会社に連絡させろ、社会人舐めんな」
「いいよ」
いいよ、とあっさり云われて高杉は眼を見開いた。
今いいよと云わなかったか?あんなに駄目だと高杉から全てを取り上げた餓鬼が高杉に携帯を返すのだと。
目の前に高杉の求めていた黒いフォルムの携帯電話を差し出されてそれを手に取ろうとすれば神威は掌を返したように高杉から携帯電話を遠ざけてしまう。
「てめぇ・・・」
「ただとは云ってない。こちらの条件を呑んでもらう」
「条件?」
「念書も書いてもらうよ、間違いがあったらいけないし、さっきみたいに酔ってたってごねられても面倒だし」
「云ってみろ」
嫌な予感がする。
予感はするがこの膠着状態がずっと続くよりマシだ。
神威を見れば「話をわかってくれてうれしいよ」と云いながら一枚の紙を高杉に差し出しながら口を開いた。

「まず、携帯を返すのはいい。連絡もご自由にどうぞ、いつまでも裸じゃ辛いだろうから、服もあげてもいい」
「・・・」
神威の差し出した白い紙を受け取りながら高杉は続きを促した。
ペンを傍らの阿伏兎という男に渡されて渋々受け取る。
どうみたってこいつらカタギじゃない。やばい匂いがぷんぷんする。
一体何を書かされるのか、命だけはありますようにと高杉は願わずにはいられなかった。
相当やんちゃはしてきたつもりだったがいつも高杉の周りには誰かが傍にいたし何とかなった。
けれども今回は一人だ。その上此処から出られないのであれば警察に駆け込むこともままならない。
「高杉のことは色々調べさせてもらったよ、まず状況を説明すると、あんたが此処に来てから二日経ってる、今は金曜日の午後二時ってとこ、俺は一昨日の夜中にあんたを拾って俺のものにした。あんた散々吐いたけど思ったより具合が良くてさ、」
「・・・つか、よくあんな状態でヤりやがったな・・・」
自分ならげえげえ吐く奴を相手にヤりたいなんて思わない。最悪だろう。
その上相手は男だ。冗談じゃない。
呆れながら高杉が云えば神威はなんでもないように笑みを見せた。
「別に、あれより酷い場所でやったことなんて何度もあるし」
ああ、そうですか・・・。
遠い眼をしながら高杉は神威を見遣る。どうみてもこの餓鬼は堅気じゃない。まわりに居る奴もやばすぎる。この部屋には神威と高杉以外に阿伏兎という男と高杉の背後に居る男しかいないが、どうにも玄関の方にも何人か居る様だった。
ヤクザか、日本語でない様子もみられるからもっとやばいマフィアとかだろうか。
怖ぇよ、と流石に冷や汗を垂らしながら高杉は息を吐いた。
高杉は一介のサラリーマンだ。ヤクザだのマフィアなどには縁の無いごく普通のサラリーマン。
それなりの大手企業に就職し忙しい毎日を過ごす一般人なのである。
キャッチなどでよくホストをしませんか?などと云われて煩わしいこともあったがあれもこの状況に比べれば遥かに一般的なことだ。
「あんたの過去は一応洗った。妻子なし、独身。過去の性経験についてはおいおいベッドで訊くとして、あんた俺以外に男の経験あったみたいだし、あ、あんたの為に云っておくと生でやったけど俺変なビョーキは持ってないから安心してよ、仮にあんたの方にビョーキがあって感染でもして死にそうになったら一緒に死んでもらうからそれも覚悟してね」
「・・・」
そう、確かに経験がある。
一度だけだ。大学時代に坂本と。あれも飲みすぎて変な流れで互いにノリでやって仕舞った。
翌朝後悔の渦に頭痛と共に飲まれたが、幸いにも坂本もそのことについて一度も口にしなかった。
多分覚えているのだろうけれど、ノンケ同士だし、無かったことにして互いに忘れた振りをしている。
ちなみに生では無い。酔っていてもそれくらいの判断はできたのか、ゴムは着けていたらしい。
あの時ももう一生酒は飲むまいと後悔したものだったが、何故あの後悔を持続できなかったのか。
己の愚かさに高杉は項垂れた。
( 最悪だ )
何度も云うが最悪だ。
「大手出版会社に経理で勤務。出世街道だったんだってね。貯金もあるようだし、結構イイ場所に住んでるみたいだしネ。さて此処からが本題だ。あんたに俺の話をしよう。春雨って知ってる?」
「春雨?食べる方の?」
はるさめと云われて出てくるのがそのくらいしかない。
「結構有名なんだけどな、アジア最大のシンジケートって云えばわかるかな」
「シンジケート・・・」
聴いたことがあるかもしれない。
アジア最大のシンジケート春雨、チャイニーズマフィアだとかロシアだとかベトナム系だとかそういうのが徒党を組んでこの現代に南の方で海賊行為をしているだとか、人身売買をしているだとか、そういう話だ。
日本ではあまり聞かないが、以前その春雨の海賊船が日本の商船を襲ったと云う記事を見たことがある気がする。
「そう、俺ね、其処の第七師団っていう実動部隊のトップでさぁ」
やっべぇ。
とにかくやばい。目の前の餓鬼、極道なんてもんじゃない。マジモンのやばさだ。
高杉が考える規模より遥かに大きいそれに眩暈がした。
相手がやばすぎる。
どうしよう、金で解決できればいいが、できなかったら?
仕事どころじゃない。とにかく無事に此処を出る方が先決だ。
こいつらには一般的なルールなんて通用しない。高杉は漸くそれを理解した。
「で、俺高杉の所有者なわけじゃない、悪いけどそれは覆らないからね、俺が決めたらそうなんだ」
そうなのだと云われて高杉は込み上げてくるものをどうにか押さえて息を吐く。
頭を抱えるようにしてから、「大丈夫?」と高杉を気遣うように聲をかけるふざけた餓鬼に口を開いた。
「煙草・・・あるか」
久しく吸ってなかった。
昨年の健康診断で少し気になる数値があったのでこれを機に健康も良いかと思い控えていたが、それも出来そうに無い。
神威は煙草を取出し高杉に差し出す。口に咥えれば直ぐ様傍らの男が火を点けた。
一服吸って吐き出す。
やばいのはわかった。
此処から逃げられないのも多分本当だろう。
どういうつもりかわからないが、神威が少なくとも高杉を手放す気になるまでは無理だ。
仮に手放されたとしても命があるのかどうか。財産を毟られる程度で済めば万々歳というところだろうか。
高杉はとにかく此処を無事出られて現実に復帰できればもうそれで良いという気になっていた。
「それで?てめぇは俺に何を約束させてぇんだ」
やけっぱちで念書を書く紙にペンを押し付けて高杉が問えば神威は聲をあげて笑った。
「話が早くて助かるよ、高杉ってそういうところがいいよねぇ、なら条件は呑んで貰うよ。何、身ぐるみ剥ごうってわけじゃないんだ。俺は甲斐性はある方なんだよ、良かったね。お金は今までの給料の倍出してあげる。これは最低限の保障として。追加で欲しければ云ってくれればいいよ。数千万とか億単位でなければ直ぐに用意してあげる。円でもドルでもね。家ももっといいのが欲しいならホテルの最上階スウィートだろうが何だって用意する。高杉の望みの大抵は叶えてあげる」
でも、と神威が言葉を足す。真っ直ぐに高杉を見据えながら神威は云った。

「でも俺と別れるのは許さない。」

ぞくりとする。
その眼に。その激しい情欲を秘めた獣のような目に、ぞっとする。
「仕事は勿論辞めてもらうし、家は引っ越してもらう、高杉にはこれから二十四時間四六時中便所に行っている間も警護が付く。警護は監視も兼ねているからね、あんたが俺から離れないのがわかったら友達に会ったってかまわないし、好きなところに旅行にも行ってもいい、女なら愛人を作ってもかまわない。少しづつ段階的に自由をあげる。今は差し詰め俺から離れないっていう今の条件全てを含めた念書を書いてくれたら携帯を返してあげて、服を着せてあげるくらいの自由かな」
わかった?とにこりと笑顔で云う餓鬼が末恐ろしい。
本当に何故一昨日飲んでしまったのか。
何故倒れてしまったのか。
この餓鬼に拾われてから散々だ。
そしてこの餓鬼が飽きるまで二度と普通の生活など送れまい。
最悪だ。
最悪、本当に厄日だ。
「拒否したらどうなる?」
「あ、それを訊くんだ。いいよ、リスクは知っておかないとね、想像力は大事だ。じゃあ云うけど、そうなったら俺はまだあんたと遊びたいからあんたをあの部屋に監禁して犯し尽くす。薬を使ってあんたは一ヶ月か以って数ヶ月でラリって壊れるだろうけどそんなの俺の知ったこっちゃない。あんたは俺を愉しませる為に足を開けばいいんだ。嫌がるアンタに注射をして俺無しじゃいられないように縛って、そのうち縛ったところから肉が落ちて壊死しても俺はあんたが俺を拒否し続ける限りあんたが死ぬまでそうする。死んだあんたの死体はバラして捨てるか、ラブホテルにでも放置して不明死体に仕立て上げる。その頃にはあんたの様相も変わっているだろうし俺達はその道のプロだから別に困らない。手間が増えるだけ。あんたは行方不明者として何か月後か何年後かに死体が判明して終わり。」
さらっと云われて背筋に悪寒が奔った。
餓鬼だ。餓鬼の筈だ。
神威と名乗る子供は真に春雨とやらのシンジケートの実力者なのだと思い知った。
やばい、まずい、本当に誰かが助けてくれるのなら誰でもいい。
高杉はごくりと唾を飲み込み、目の前の餓鬼に呑まれないようにその眼を真っ直ぐ見据え煙草を燻らせた。
「いいね、俺が高杉を気に入ったのは其処なんだけど、あんた獣みたいに綺麗だ」
「よく云われる」
きれいだと、云われることがある。
片目しか晒せないと云うのに、そう人に云われることがある。
色気があるのだそうだ。高杉にはよくわからないが、それなりに遊ぶのには役に立ったのだから少なくともそう云われる程度の色気とやらがあるのだろう。
まさかそれがこんな餓鬼を引っ掻けるとは思いもしなかったが。
その大きな誤算を前に高杉は腹に力を入れた。
「ちなみに逃げても駄目だよ。警察に駆け込んでも無駄。その場合俺は警察にあんたが俺の仲間だっていうあらゆる証拠をでっち上げて表の世界に出られないようにしてからあんたをあらゆる方法で探し出し、あんたを助けるために加担した奴らを皆殺しにしてあんたの前にその首を並べる。何年かかって逃げてくれてもかまわない。追いかけっこも好きなんだ」
追いかけっこが好きだという餓鬼の目は本気だ。
本気でやる。仮に高杉が此処から逃げ出せたとして誰かを頼れば必ずその頼った相手を神威は殺すだろう。今云ったように。殺す。そして高杉を引き摺りながら連れ戻す。高杉がどんなに相手は悪くないのだと訴えても神威は殺す。それがルールだからだ。
高杉を許しても神威は逃亡に手を貸した相手を決して許さない。
其処に愛は無い。
別に神威も高杉も恋愛などしていない。身体の関係だ。
一方的に神威が盛りあがっているだけ。出遭って二日なのだ。高杉は神威の事を知らないし、神威もそうだ。
けれども、これはそんな次元の話では無い。神威の世界のルールの話なのだ。
己とは全く異なるルールに生きる犯罪者。それが目の前の餓鬼だ。
逃げられない。
絶対にこの餓鬼からは逃げられない。
少なくとも今の高杉ではこの状況をどうすることも出来無い。
高杉は手にした煙草の灰を灰皿に落とし、それからもう一度煙を吸った。
腹を、括るしかない。

「わかった、とりあえず携帯を返せ、服も寄越せ、その程度の自由は呉れるんだろう?」
白い紙に要求されたことを書く。
最後に高杉晋助とサインをして、血判を押せば終わり。
その念書を差し出しながら、高杉は恭しく用意された上着に袖を通した。


02:最も凶暴な告白文
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