朝方ミツルが帰宅すれば直哉も起きていたのか煙草を燻らせていた。
そんな直哉を見てミツルは「ああ、仕舞ったな」と思った。
自分も疲れていたのか珍しくそれを顔に出して仕舞った。それがいけなかった。
「帰ったのか」
「うん、珈琲でも淹れようか?」
「・・・噫」
直哉はかけていた眼鏡を外した。ずっと画面ばかり見ているので疲れたのだろう。
仕事中はだいたい直哉は眼鏡をしている。
「何処に行ってた?」
冷たい声で直哉にしてはややキツイ口調で問われる。矢張り逃がす気は無いらしい。
ミツルはやや重たい溜息を吐いてから珈琲サーバーを取り出し、ケトルに水を入れスイッチをオンにした。
「知り合いのところだよ」
「『知り合い』か、何処の誰だ」
「『知り合い』は『知り合い』だよ」
「新しい女か、」
「そんなとこ」
直哉の視線が厳しい。大抵ミツルの夜遊びを大目に見るが今日は機嫌が悪いらしかった。
ミツルはドリッパーに珈琲ミルで挽いた粉を分量通りに入れ手際良くカップを取り出した。
直哉は何も云わずにミツルの言葉を待っている。
待っている間に直哉は新しい煙草を取り出した。視線からして今日は許して呉れる気はなさそうだ。
ついにミツルは観念して両手をあげる。
「わかったよ、云うよ、亜由美さんって云って年は二十五歳OL、さっきまで彼女と六本木に居た」
「付き合ってるのか?」
「違うよ、三回程会っただけ」
事実だ。ミツルは特定の相手と寝ることはあっても付き合わない。
それがミツルのスタイルだ。
直哉は普段何も云わない癖して時々こうしてミツルにどうしていたかしつこく訊くことがある。
保護者の立場と云えばそうだったが直哉のそれはどちらかというと少し違うものだ。
嫉妬である。思い通りにならないミツルに対して苛立ちを隠さない時は尚の事そうだった。
普段冷静なだけに直哉もこのところ仕事が忙しい所為なのだろうと思う。
ミツルは珈琲の用意をしながら徐々に冷静になってきた。
「もう会わないよ、別にそれほど親しくもなかったし」
「親しくも無いのに、宜しくやったわけか」
軽蔑するような直哉の発言にも慣れっこだ。
事実を否定はしない。ミツルは冷静だった。


―ミツルは直哉が好きだ。
自覚したのは二年前のことだ。
当時直哉は大学生で、理数系の直哉らしくコンピューター技術関連の学科を専攻していた。
まだ実家暮らしで、ミツルと直哉の距離は今と変わらず近い。その近さ故にミツルは気軽に直哉の大学の研究室にも顔を出していた。ミツルは身長で云うなら矢張り大きかったし大学に紛れるのも簡単だった。
咎められれば兄の荷物を届けに、の一言で片づけられたし、皆ミツルを可愛がってくれた。
ミツルは小さい頃から直哉との距離がずっと近かった。本当の兄弟と錯覚するほどに近い距離で育った。
七つ年上の直哉はミツルの面倒を良くみたし、ミツルも良く懐いた。
それは溺愛というような関係でも無くごく普通の仲の良い男兄弟としての間柄だった。
ミツルは昔から大きく逆に直哉は今のミツルの年齢の頃に一気に伸びたので七歳という年の差がありながら一貫して二人には身長差が殆ど無い。
直哉曰く「お前は昔から可愛げの無い子供だった」と苦虫を潰したような顔をして云うが、実際ミツルは身長そのままに早熟であったので可愛さの欠片も無いと云えばそうだったのかもしれない。
今でこそミツルが180センチで、直哉が182センチだ。時々直哉はミツルに背を抜かれるんじゃないかとひやっとして高校の時に牛乳を熱心に飲んでいたと母に揶揄される。
そんな風に母に云われるくらいずっと年の近い兄弟の感覚でミツルは直哉と育った。

二年前、その大学でミツルは一人の男の人に会った。
名前を思い出すのも今では気が引ける。とにかく彼は直哉と同じ学科で、同じ研究室に出入りしていた。
声をかけてきたのは彼の方からだ。直哉が居ない時に大学のパソコンでネットをしていたミツルに彼は声をかけた。彼はミツルより少し背が低く、そして人が良さそうな人物だった。
何度か一緒に食事をしたり直哉を交えて話をしているうちに携帯のアドレスを交換して、それから何度目かの遣り取りの時に彼からキスされた。
勿論ミツルは酷く驚いた。そんなことをされるとは思っていなかったのだ。
当時十五歳だったミツルは勿論それが初めてでは無い。女性とはとっくに済ませていたし、性交渉もあった。けれども男性とは初めてだった。
彼はミツルが好きだと云った。初めて逢った時からずっと好きだったと云った。
ミツルはその時、確信した。―自分が直哉を好きなことに。
そして考えた。それは性交渉が伴う好きなのかどうか、ミツルは冷静に考えた。
こういった分析が出来たのがミツルの不幸なのかもしれない。ミツルは酷く冷静に自分を分析した。
だからミツルは彼と寝てみた。寝たらわかるかと思ったのだ。
彼はミツルに男とのセックスの仕方を教え、またそれに伴う危険も教えた。
ミツルは彼に犯され、何度目かのセックスの後に彼はミツルに抱かれたいのだということも知った。
彼はミツルを抱いたし、そしてミツルに抱かれもした。
そして行きついた答えは、ミツルは直哉を性的に好きだ、と云うことだ。
いくら早熟と云ってもミツルはその答えに些か混乱した。
混乱したがどうにも出来ない。自分は幼い頃から直哉が好きだったがまさかそれが性的なものを含んでいるとは思わなかった。全く考えていなかった。しかし問題は其処では無い。
やがて彼とミツルの関係に直哉が気付いた。あの直哉が気付かないわけが無い。
或いは彼がふとした時に直哉に洩らしたかもしれなかった。
君の従弟と付き合っていると直哉に云ったのかもしれなかった。
そして不意に終わりが訪れた。彼はミツルとの約束の時間に現れなかった。
程なくして彼は車で事故を起こし、意識不明のまま今も病院だ。
事故のことを淡々と告げる直哉を見た時にミツルはそれでも直哉を好きだと思った。
最低だけれど彼には何も思うところが無かった。いい人だったけれどそれだけ。
ミツルが自分を知る為に利用しただけ。申し訳ないけれど本当にそれだけだった。
だから彼の事故を起こしたのが直哉だと咄嗟に感じた。
直哉の燃えるような赤い目が怒りに包まれている。
その目を見た時に確信したと同時に、ミツルは理解した。

―直哉も自分を好きなのだ

性的なファクターで直哉も間違い無くミツルのことを好きだった。
いつから?いつからだとミツルは記憶を探るがわからない。もしかしたら最初からかもしれなかった。
ミツルと直哉が初めて逢ったあの幼い日からずっとそうかもしれなかった。
だからこそミツルは決めた。
直哉とは何があっても寝ないと決めた。


珈琲粉の上からゆっくりとケトルのお湯を注ぐ。
香ばしい香りが辺りに広がった。ミツルは同じ動作でゆっくりとお湯を注ぎ、
そして残ったお湯でカップを温めた。
「この前が男で今度は女、交互だな」
「そうかな、偶々だよ」
二年前の『彼』との事件以降ミツルは男でも女でもどちらとも寝る。
寝る代わりに付き合わない。そういうスタンスで生きている。
直哉に対する性的な欲求を押さえる為にどうしてもそれは必要だった。
じゃなきゃとてもじゃないけれど直哉とミツルは一緒に生活出来ない。
恐らく直哉もそうなのだ。直哉もミツルと同じように他所で解消している。
その癖互いに離れることなど考えられないのだからどうしようもない従兄弟同士だ。
だからこそミツルは穏やかに微笑んだ。
「珈琲、少し甘くしようか?胃が荒れるし、フォーマーでミルクを泡立てようか?」
「次は男だろう?」
直哉が立ちあがる。互いに長身なので些かキッチンが狭くなった。
大の男が二人キッチンに立つには此処は手狭だ。
しかし直哉はそれを気に留めるでも無くミツルの手を掴み、顔を近付ける。
鼻先が触れる程にその端正な顔を近付けて欲望を隠しもしない表情で噛み付くように迫られた。
情熱的な迫り方だ。正直に云ってたまらない。ミツルは直哉から目を背けた。
「直哉、痛い」
ぎゅ、と直哉に握りしめられた手は痛い。指の先に血が通わなくなって痺れる感じがした。
直哉はああ見えてかなり鍛えている。力技で来られたらミツルが回避できるかはお互いの体格からして五分五分だった。
「男なら俺でもいいだろう?」
直哉が迫ってくる。ミツルの膝を割って足の間に身体を入れて、厭らしく腰を押し付けてくる。
当たったところが少し固いことから直哉が勃起しているのだと知れた。
ミツルは僅かに身じろいでそれから冷静に直哉を見つめた。
「ごめん、無理」
「何故だ?」
直哉は厭らしくまるで睦言でも囁くようにミツルの耳尻を食む。
そしてその長い指をミツルのシャツの中に入れてきた。
直哉の指の冷たさにミツルの身体がびくりと跳ねる。直哉は体温が低いのだ。
ミツルは傍から見ればキスしているようなギリギリの角度で直哉に答えた。
吐息が触れるか触れないか、そんな距離で熱を籠めて直哉に答える。

「生理中なんだ」
ごめんね、と微笑みながらミツルはするり、と直哉の腕から抜けた。
直哉は一瞬呆気にとられた顔をして、それからまだ諦めきらないのかミツルに手を伸ばそうとする。
ミツルはそれを軽くかわして、サーバーに溜まった珈琲をカップに注いだ。
「生理なわけ無いだろうが、お前は男だ」
「うん、そうなんだけど、ごめんねそういうことだから、あ、ナプキンもあるよ、見る?」
ポケットから出したのはいつの彼女から貰ったのか、冗談で貰った生理用ナプキンだ。
それを取り出せば流石に気が逸れたのか直哉が溜息を吐いた。
「はい、珈琲、ミルクは待ってね、今泡立てるから」
そう云ってミツルが直哉にカップを渡せば直哉は肩を竦めて作業に戻った。
こうして貞操の危機をミツルは切り抜けたわけだが、もうこれも慣れっこだ。
毎回色んなパターンを想定して如何に直哉の気を殺ぐかに重点を置いて攻めている。
そして最後にお詫びとして珈琲を淹れれば直哉の溜飲は下がった。
ミツルの淹れる珈琲は美味しいのだ。
バイトで習った所為かプロ顔負けの美味しい珈琲は直哉のお気に入りでもあった。
けれどもミツルは考える。ああ、直哉の云う通り、こう煽られてしまっては次は男だな、と思った。


03:焦らし上手なひと
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