結局あれから次の日は休んでいいと云われて更にその翌日。
明楽はバイトを辞めてやろうと思っていた。
身体は痛いし筋肉痛だし、喉だってまだいがいがしている。
当然だ。あんなことされたのだ。騙し討ちみたいにまた。あの従兄は!あのド変態は!
明楽は怒髪天だったし、直哉を殴っても許されるはずだ。
そもそも明楽は厭だと云ったのに何度も何度も直哉は明楽の身体を好い様にした。気持ち良かったけども・・・!
それが許せない。そもそも男同士なのが問題であったが、明楽にそのあたりの危機感は薄かった。
それこそ直哉に『そんなこと』をさせている原因なのだが残念な明楽には気付くことが出来ない。
更に残念な事に、明楽は引き籠りで友達がいない所為か自身の世界が極端に狭く相談できる相手もいない。
居ると云えばTDSの『カイン』くらいで、それさえも明楽の従兄であるあの直哉なのだから四面楚歌であった。
故に明楽は悶々とした。残念なことに気持ち良かっただけに悶々とする要素があった。
一番の解決策はバイトを辞めてさっさと引き籠りに戻るなり直哉を避けるなりすればいい。
それでいい筈だ。
ネットに上がるのも癪なので明楽はずっとオフラインモードだ。
でも携帯も鳴らないし、何度も云うが明楽に友達はいない。
・・・結局友達のいない明楽は直哉の家でバイトをするのであった。

「だって・・・仕事慣れたし・・・やる事あるし・・・書類整理しなきゃだし・・・」
色んな言い訳を作って直哉の家に行くあたりが明楽である。
所謂ツンデレであった。
断じて明楽は直哉が好きなわけでは無い。確かに少しは兄というものに憧れがあった。直哉は完璧だった。でも直哉は明楽に特別意地悪だ。今更好きになんかなれるわけが無い。明楽にとって直哉はいつまでも嫌な従兄だ。
直哉からすれば好きな子ほど苛めまくりたいので、この二人決定的に合わなかった。
直哉が気に入る人間が稀であるというのに、明楽は直哉の『特別』になってしまった。
明楽の意図しないところで。勿論明楽は確かに特別だ。直哉にとって縁が深い。けれどもまるであの『弟』に似ない明楽は直哉を翻弄した。少しでもあの『弟』に似たところがあれば直哉とて身構えたしそれ相応の接し方をしたのに明楽にはその片鱗さえ見えない。本人の性格や性質に反して巻き込まれることを運命付けられた明楽に多少の同情もあったがそれだけだった。直哉にとって必要な『物』以外の認識は無かった。でも明楽が直哉に火を点けた。いう事をきかないその生意気な態度が直哉のスイッチを入れた。
こうなれば直哉はどうあっても明楽を手放さない。自分がそういう男なのだと云う自覚はある。伊達に直哉とて長く生きてはいない。
一度己が執着すればそれは凄まじい執念になるのだと身を以て知っている。直哉はちゃんと明楽に警告したのに、明楽はそれを無視した。
だから直哉に火が点いた。
それからの直哉の行動は迅速だ。明楽には絶対わからないように周りを囲い込んでがっちり明楽を自分のテリトリーに捕えている。明楽の性格を知り尽くした直哉が罠を張って明楽は油断とそのお気楽な頭で『嫌味な従兄』にすっかり落ちたのだ。
そしてあんなことをしても明楽は来るという直哉の確信はきっちり当たっていたのである。
そういうところが明楽は危ういのだ。心配なのだ。直ぐ人を信用するから直ぐ騙される。
それは明楽の良いところでもあったが、直哉が危ぶむ面でもあった。
今だって文句を言いながらも結局直哉の前に立っている。そんな明楽に直哉は呆れながらも、内心は安堵している。それでこそ明楽であるといっそ称えたい。莫迦な子ほど可愛いがそれが自分の従弟である分やや心中は複雑であった。
「だから、別にお前の為とかじゃないからな、あと変な事するなよ・・・!」
「わかったわかった、今日の書類片付けてくれ」
直哉が煙草を燻らせながら明楽に云えば、明楽は少し眉を顰めてから頷いた。
それで直哉は気付く。明楽は喉が痛いのだ。
先日あれだけ喘がされれば当然だ。
直哉はクーラーの温度を下げて、それから窓を開けた。蝉が煩い程に啼いている。今年も暑いが来年は更に暑い夏になるだろう。来年の夏には世界が変わる。
その為にやることは山ほどある。直哉は仕事を再開する為にパソコンに向き直った。いつもの仕事だ。
明楽はそれを見届けてから直哉が窓を開けた理由に思い当った。
「あ・・・」
もしかしたら、もしかしてだ。
明楽が喉が痛いから直哉は窓を開けて換気したのだ。
それを裏付ける証拠に直哉は煙草を吸っていない。殆どチェーンで煙草を吸う直哉が煙草を吸わずに珈琲を啜りながら仕事をしている。
それが自分の為だと気付いて明楽は少し混乱した。
あの直哉が?そんな莫迦な。
けれどもそれは『当たり』だった。
普段明楽の事なんか気も遣わない癖に、直哉は突然立ち上がり明楽に近付いた。
それから・・・。
「何だよ・・・」
「いや、忘れ物だ」
忘れ物?と明楽が口にする前に、直哉からの掠めるようなキス。
それに驚いて変なことをするな!と明楽は直哉を押し退ける。が、気付いた。
「飴・・・?」
レモン味の喉飴だ。
爽やかな味は偏食の明楽でも食べられるものだ。
「喉、痛いんだろ」
これには参った。なんというか負けたというか、降参というか。不意打ちだ。
うああああ、と明楽は内心思いながらもどうにか憎まれ口を叩く。
「・・・普通に渡せよ・・・」
「それは悪かった」
・・・その言い方はずるい。
明楽の顔は今きっと真っ赤になっている。耳まで熱いのだ。
これは暑い所為だ。直哉が窓なんか開けるから。直哉の所為だ。
全部全部直哉の所為だ。
ずるい。こんなの。
これはネットでTDSのオンラインであれ程仲良く話していたカインと同じだ。
そんなさり気無さ。そういう恰好良さはずるい。
こんなのでどきどきするのがおかしい。
直哉は直哉で嫌味で陰険な従兄だ。その筈だ。
カインとは全然違う。
だってネット上のカインは明楽の理想だ。理想の男で理想の兄貴だ。
なのにずるい。
そのカインと直哉が今重なって見えるなんて・・・。
「本当・・・ずるい・・・」
のど飴は明楽の喉を癒した。
蝉の聲が夏を際立たせて、それからまた明楽のバイト生活が始まった。



「スーツ?」
その日直哉の家に行けば直哉がスーツを着ていて明楽は吃驚する。
黒いスーツに少し濃いブルーのシャツにネクタイを締めていてどきりとした。
いつもは変な着物を羽織っている壊滅的な服のセンスの癖に一体何があったのか。
「仕事の関係でな、午前中から色々出ていた」
「ふうん」
明楽は鞄を降ろしながら靴を脱ごうとする。このバイト生活にも慣れたもので明楽の社会復帰は順調である。
だからいつものように仕事をするつもりで郵便受けにあったメール便やら書類の入った封筒やらを持って直哉の部屋にあがって来たわけだけれど直哉はまた出かけるようだった。
「お前も来るか?」
「え?いいの?」
「大人しくしているなら別にかまわん、会社とか興味あるだろう?」
直哉の言葉に明楽は頷く。
たまに打ち合わせで直哉がいない事はあったが同行するのは初めてだ。
それに普段と違うことがあった方が楽しいに決まってる。
「直ぐ終わるから黙って横に座ってろ」
車を運転する直哉の隣で黙っていると約束し、明楽はわくわくしながら直哉の仕事に同行した。

二件ほど小さなビルに入った会社を回って、もう夕方なのにまだ茹だるような暑さで明楽は思わず手で自分を扇いだ。たいして涼しくもならないが、直哉がもう終わると云って打ち合わせの書類を明楽に持たせたので明楽は慌ててその書類をファイルに仕舞った。
直哉はいい加減なようで管理には煩いのだ。
丁寧にA4の紙の束を仕舞ってから明楽は直哉の後に続いた。
スーツ姿の直哉には慣れなくて改めて直哉が大人なんだなと明楽は思う。
「バーだけど夕飯食べて行くか?」
バーと云われて明楽は頷いた。バーだぞ。バー!大人の世界ってやつだ。
高校生で尚且つ引き籠りがちな明楽には縁遠い場所だ。連れて行って貰えるならなんでもいい。
明楽にとっては楽しい社会勉強である。
直哉に連れられて行ったのは意外なことに直哉の家の近所だ。
表参道の路地を入ったところにあるバー『EIJI』と書かれた其処に直哉は迷わず入って行く。
まだ早い時間なのに既にまばらに人が入っていて明楽は驚いた。
「まだ早いのに・・・」
「そういう客も居る。好きなものを頼め、ただしアルコール以外な」
最近ではどの店でもノンアルコールが充実している。明楽とてそういうものに興味はあったが矢張り嗜好の問題で飲める気がしなかった。結局頼んだのは水である。それとオムライス。直哉はお酒を注文していて、それから名物だという大ぶりのサンドウィッチを頼んでいた。
カウンターに座って、直哉はバーのマスターっぽい人と話をしている。明楽は改めて傍らの直哉を意識して見た。

大人の男だ。
そう、直哉は確かに大人なのだ。
こうしてスーツを来てきちんとした格好をして仕事帰りにこういうバーに寄ると余計そう思える。
誰が見ても恰好良い、美形の従兄だ。頭が良くて、大抵のことは難なくこなして。
普段はいい加減な服装で嫌味な態度の癖に、こういう時明楽はこの従兄が自分より七歳も年上の従兄なのだと思い知る。
明楽は始終黙ったまま直哉の隣でそれこそ『大人しく』過ごした。
だって、こういうのはずるい。
明楽の憧れていた『兄』の像だ。
そんなことあるわけない。一皮剥けばあの『直哉』だ。その筈だ。嫌味で陰険で外面だけがイイ悪魔の直哉の筈だ。
なのに、こんなの、こんな風に大人な一面を見せられると明楽は弱い。
それは明楽の理想だからだ。
まやかしだとわかっていてもちょっときゅん、とするのは直哉が恰好良く見える所為である。
これはバーのマジックなのか、スーツの力なのか、はてまた自分の目がおかしくなったのか、そんなことを明楽が考えているうちに食べ終わって、気付いたら直哉の家に戻っていた。
「泊まるか?」
「何で・・・」
「眠い、送ってやれそうにない」
二日寝ていないという直哉は確かに疲労が見える。
「自分で帰れるよ」
「いいから泊まれ」
「やだよ」
変な事される、と明楽が小さな聲で云えば直哉は何も言わずにシャツのネクタイを緩めた。
その仕草に明楽はどきりとする。どきりとしている時点で既に毒されているだが、対人スキルの低い明楽にはどうしようも出来ない。
「泊まっていけよ、明楽」
あきら、と直哉に云われるとつい頷きそうになる。
でも駄目だ。だってあんなことされたら明楽はまた駄目になる。
何が駄目になるのかわからないが、スーツ姿の直哉にやられるときっと多分、駄目だ。
立ち直れないところまで行く気がして、なのにそれをちょっと期待している自分が居て。
恥ずかしくなるのに直哉はさっさと明楽の母に電話をして、泊まりを決めて仕舞う。
期待していないといえば嘘になる。
またあれをされるかと思うと嫌だし、やっぱり怖い。なのにあの気持ち良さに溶かされるかと思うと明楽は流されそうになる。
実際物凄い勢いで流されているのだが。
「服のセンス直せばいーのに」
「何か云ったか?」
照れ隠しに明楽は直哉のスーツを、とんと叩いて云った。
「いつもそーゆーの着とけって云ったの」
「堅苦しいのは好かん」
ネクタイ外す直哉の仕草が大人の男っぽくて明楽はどきどきする。
どきどきしてそのままベッドに押し倒されても大した抵抗ができない。
言い訳を考えないといけない。そうしないと明楽は自分を納得させられない。
なのに・・・。
「え・・・」
ぎゅう、と抱き締められている。
直哉に。
間違いない。明楽は直哉に抱き締められている。
抱き枕よろしくそれはもう、ぎゅうっと。
「寝る」
一瞬で意識を落とした直哉が無防備な顔で明楽を抱き締めたまま寝てしまった。
「ちょ、ちょっと・・・直哉・・・!」
引っ張っても動いても駄目だ。直哉は強い力で明楽を拘束していて梃子でも動きそうにない。
そう寝てしまったのだ。
正に寝落ち。

疲れていると云っていた。
確かにそうだけど。
なんか一瞬でも期待した自分が莫迦みたいだ。
そしてとてつもなく恥ずかしい。

「直哉の・・・莫迦・・・!」

従弟の心、従兄知らず。
そんなものである。
それでも眠る直哉の整った顔を見ているとどきりとする。
凄く綺麗な直哉。
意地悪だけど。
凄く恰好良い直哉。
性悪だけど。
なのに、時々見える優しさに、甘えに、素顔にだんだんカインと直哉のずれが埋まってくる。
直哉がちょっと理想のお兄ちゃんに見える。変態だけど。
昔、明楽は兄ができると聞いてちょっと嬉しかった。期待した。夢をみてた。
友達のお兄ちゃんはスポーツが出来てリーダータイプで兄貴って感じで凄く羨ましかった。
でもうちに来たのは直哉で、確かに直哉は誰より綺麗で、何でも出来て、凄く頭が良くて周りが皆直哉を特別扱いした。
理想のお兄ちゃん。
でもそれは明楽だけのお兄ちゃんじゃなかった。
皆の特別で、明楽の特別にはなってくれなかった。
それに置いていかれた気になったのは明楽だ。
想像していた兄と違った。直哉は多分最初は明楽に優しかった筈だ。
なのに徐々に意地悪になって。
気付いたら明楽は直哉に散々煮え湯を飲まされたのだ。
そもそも直哉の沸点が何処にあるのか未だに明楽にはよくわからない。
ただ明楽が考えるよりも直哉は迅速にだがゆっくりと物事を測る傾向がある。
つまり、速度が違うのだ。明楽が何かをして直哉を怒らせたとする。直哉はそれを叱ろうと直ぐ対応するが、実際には明楽に何も云わない。そしてじわじわと気付けば周りを全部埋められて明楽が悪いと叱られる。その頃には明楽も何をして直哉を怒らせたのかすっかり忘れているので、直哉に理不尽に怒られたと云う記憶しか残らない。そういうことが積もり積もって今の関係になったのだ。
直哉のペースと明楽のペースが思考レベルでまるで違うので何時まで経っても明楽には直哉がわからない。
わからないなりに嫌な思い出があるものだから直哉は嫌な従兄になる。
たまに直哉が明楽に優しくしても明楽にはそれが当てつけにしか見えなくなるのだ。
それでも明楽は直哉みたいになれば追いつけると思っていた。
直哉みたいになればなんで直哉に叱られるのか、なんで明楽が駄目なのかわかると思っていた。
だから追いつこうとした。明楽なりに頑張った。高校だって偏差値で云えば悪くないのだ。明楽の努力の結果だった。
でも直哉は出来すぎていて、明楽にはどうしたって追いつけなかった。
だから嫌いになった。
明楽はこうしてブラザーコンプレックスを抱くようになったのだ。
その溝は深い。今でも明楽はそれをずっと引き摺ったままだ。
出来すぎた兄と引き籠りの弟とじゃ違いすぎる。だから憧れがあるのにいつまでも素直になれない。
だからってこの関係はおかしいと思うけれど、それでもなんとなくこうしているのが嫌じゃないのに驚いた。
気付けばあれほど嫌だった直哉と過ごしている時間が一番多い。
有り得ないことだ。少し前の明楽なら想像もできなかったこと。
天地がひっくり返っても有り得ないことだ。なのに今明楽は直哉といる。
嘘みたいなこの事実に明楽は少し目を丸くした。
嫌だ。厭な筈なのに目の前で眠る従兄が明楽は嫌いではない。
もう嫌いではないのかもしれなかった。
明楽はおずおずと直哉の頬に手を置き、それからそっと囁いた。

「おやすみ、直哉」


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