幼いころ、たどたどしく後を追ってくる弟が可愛かった。
無性に何かを教えたくなって、それが所謂兄貴面というような
莫迦莫迦しい感情であっても、弟は己の云うことにいちいち
喜び、そして素直に頷き優しく微笑んだ。
追ってくる手、いつだって兄になった己を求めた小さな手
その小さな手をいつまでも握っていたかった。

何が悪かったのだろう。
何処で歪んで仕舞ったのだろう。
気付いた時にはもう遅く、取り返せないほど遠くに
彼は逝って仕舞った。
追いかけても追いかけても手は届かない。
走って、走って、もう足ひとつまともに動かせないほどに走っても
どうしたって取り戻せない。
取り戻せなかった。
神はそれを罰だと云った。
その愛を罰だと云ったのだ。

「終わらせたいんだ、直哉」
終(つい)の言葉に直哉は己の耳を疑った。
ベルの王位争いに勝ち、七日目にこの場にバ・ベルの間に立った終は口を開いた。
( 知っていた? )
( いつから )

いつから、否、恐らく最初から、
あの夢から、出会う前から、或いは記憶を全て取り戻したか?
アベルの記憶を取り戻したか、と咄嗟に終の顔を見るが
終は云いたいことを理解しているのか緩やかに首を振った。
記憶など終にある筈も無い、彼に在るのはただアベルの死の夢だけだ。
「このベルの争いは最初から仕組まれていた。天使とそれから直哉に」
「いつからだ・・・」
「確信したのはベル・デル戦が終わって直哉が注射を打った時に」
「意識があったのか」
「少し」と終は短く言葉を切った。
直哉の手がなければ死んでいた。
間違いなく死んでいた。
けれどもこの弟は間違いなく天才だ。
病んでなければ直哉を上回る存在なのかもしれないと、戦慄が走る。
「ずっと昔、直哉は俺をアベルと云ったよね」
言葉が出ない。
覚えているわけが無い。
憶えているわけが無いのだ。
直哉ですらあの時、驚きのあまり洩らしてしまった言葉だ。
「俺がもしアベルならカインは直哉になる」
終の綺麗な眼が真っ直ぐに直哉を見る。
あんなに綺麗で儚いのに、今は少しも揺らがずに直哉を射抜いた。
「俺を殺したのは直哉だ」
「・・・っ」
その通りだ。
返す言葉すらない。
その通りなのだ。
「ではかつてお前を殺した男が此処に居る、ならばお前はどうする?」
復讐か?そう哂いたくなる。
否、それもいい、
アベルに殺されるなら本望だ。
けれども、終から出た言葉は直哉が望んだものとは真逆だった。

「俺がアベルなら、否、ベルの王に成ったのだからもうア・ベルを継げる、
だからアベルだと云うのなら、直哉はもう一度俺を殺すべきだ」
「終?」
何を云うのか、何を云いだすのか、
呆気に取られ言葉を失う。
背後に居る筈の篤郎が何かを云ったが、それも耳に入らなかった。
「俺は生きるのを赦されない、直哉、直哉ならわかる筈だ、
俺は夢の通り、生きていてはいけない、だから終わらせて欲しいんだ」
「何を・・・」
云っているのか、
何ということだろう、
何ということなのだろう、

( 終、お前は )
「お前こそアベルだ、俺のアベルだ」
だからこそ、
これは生きていけない。
アベルの最期の記憶に刻まれたのは「己は生きていてはいけない」という強い想い
その強烈な記憶が在る以上、終は生きていけない。
生きることが罪であると己を責め続ける。
アベルである以上終は生きれない、
終が消えてアベルに成ってもそれは同じなのだ。

( 何てことだ )
これは最初から成功していて、
なのに最初から失敗していた。
「俺はそんなことの為にお前を探し続けていたわけじゃない」
何千年も何万年も気が遠くなるほど古の時代から何度も死に生まれ、
その都度弟を捜し、捜し、捜し求め、いないとわかると
弟の魂の全てをひとつに集めて、もう一度アベルを造ろうとした。
その苦渋の結果がこれだなんて思いたくない。
「俺はお前を取り戻す為に此処に居る」
そう、そうだ。
全てはアベルを取り戻す為、
もう一度完全なアベルをこの手にする為、
だからだ、
終が、終こそがアベルになればいいと思った。
終ほど完全なアベルはいないと確信した。
なのに、
「お前は生きていたくないと云うのか」
聲が掠れる、みっともなく慄えていた。
終は限りなくアベルであるが故に、
全てはカインである己が彼を手に掛けたが故に、
( これが俺の犯した罪なのか )
取り戻せないというのか、
どうしたって、どう掻き集め、叫び、求めても。
「直哉は俺に生きろというのか?それともアベルになれと云っているのかどっちなんだろう?」
終の言葉は直哉に深く突き刺さる。
( 選択を、 )
世界の選択を迫りながら、
これはどうしたことだろう、
( 選択を迫られているのは )

( 俺だ )

俺の方だった。
「アベルになれば俺は消えて直哉が救われる」
終はそう、云うのだ。
いとも簡単に。
酷い、と思う。
己は終に、酷いことをしてアベルを造ろうとしながら
その言葉が酷いと思う。
終は壊れている。
決定的に、欠けているものがある。
( 終は生きていない )
生への執着が何処にも無い。
終は終がアベルになり魂をひとつにすれば、自分は消えると思っている。
苦しみに満ちた己の生を終わらせられると信じている。
( 違う )
本当はそうじゃない、
そうじゃない、
そうではなかった
終はアベルだ、
限りなくアベルであるが故に、完全にアベルに成った終は
( 死ぬだろう )
無限ループだ。
永遠に繰り返される。
もう手に入らない、
なんてことだろう、
これが、罪だというのか、
アベルを殺したカインである己の罪だというのか、
アベルは疾うに己の手に入らないほど遠くへ行って仕舞った。
「お前は云っていることの意味がわかっているのか」
慄える聲でどうにか言葉を絞り出す。
ベルの王に成り、否、もう成って仕舞った。
そして世界中に散らばるアベルの魂をかき集めてひとつにして
そうして生まれたアベルは
( 繰り返す、また終わってしまう、俺はまた失ってしまう )
アベルを取り戻すどころか終まで失って仕舞う。
「わかっているつもりだよ、そうすれば俺も直哉も救われる」
「違う」
違うんだ、
「そうじゃない、終、」
わかってしまった、
愚かにも、やっと理解した。
違うのだ。
それではまた繰り返すのだ。
俺がアベルを殺し、或いはアベルが俺を殺す繰り返しが無限に続いて仕舞うのだ。
わかって仕舞った、今この場、この時に悟って仕舞った。
噫、どれほどの時間をかけて今この結論に到達したのだろう、
違っていた、
全てはそうではなかったのだ。
「俺はお前を、アベルを取り戻したかった、
その為にずっと生きてきた、飽く程の時間を、途方も無い年月を超えて、
取り戻したかった。でも違うんだ、そうじゃなかった、終、
アベルは死んだ、」
死んだ、と初めて口にした。
「アベルは死んだんだ、俺が殺した。それだけは変えられない、
どれほど言葉を尽くしても、どれほど云い訳をしても変えられない、
けれども、終、お前は、」
その言葉を紡ぎ出すのにどれほどかかっただろう、
絞り出すように、何かが一緒にこみ上げる、
関を切ったように溢れだす。

「お前はアベルじゃない、お前は今度こそ、自分の生を生きなければいけない、
生きていく責任を負わなければならない、俺がお前を、お前の魂を求めるあまり、
お前を病ませて仕舞った、死ななければならないと思いこませて仕舞った。
終、お前はアベルじゃない、アベルは死んだ、だからお前は生きていいんだ、
そして俺は」
俺は、と聲が掠れた、
忘れていた感情の波が溢れだす、
暖かなこれは何だっただろう、
多分ずっと遠い昔知っていたものだ。確かに手にしていたものだ。
ずっと間違っていた。
アベルの魂を持つ終は死ななければいけないと、生きていくことを直視しなかった。
アベルになろうとすることで終は生きることを放棄していた。
俺はカインとして生きることで過去しか見ていなかった。
求めていたのは遥か昔、遠い遠い過ぎ去った過去なのだ。
終わってしまった過去なのだ。
「俺は、」
言葉が嗚咽のようになる。
それでも、こうしなければいけない。
手放してはいけない。
今度こそ失うことが無いように今決めなければいけなかった。

「俺は過去でなく未来を見なければいけないんだ」

終の手を、終の細い手を握り締める。
思えば初めて終の手を本当に握り締めた。
アベルとしてでなく、終自身の手を、
そして終を救わなければいけない、
それができるのは俺しかいない。

「救いとはそういうことなんだ、終」
「俺が、」
「お前を苦しめていたんだな」

溢れてきたものは涙だ。
ずっとずっと遠い昔失くして仕舞った温かい涙だ。
溢れ止まらない。
どうやって涙を止めていいのか直哉にはわからなかった。
けれども縋るように終の手を握り締める。
贖罪のように、或いは彼を救いたい一心でこの手を伸ばす。


09:未来へ手を伸ばすということ

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