握り締めた手は暖かい、
終(つい)の手は暖かい。
暖かくて、初めてそれが生きているということなのだと
当たり前のことを理解した。
生きるということは己に取って無価値だった。
無限に続く生の苦痛だと思っていた。
でもそうじゃない、そうじゃなかった。
生きるということは歓びなのだ。

愚かなのは、

「愚かなのは俺だった、もういい、もういいんだ終、
俺は誰の赦しもいらないのだと思っていた。
誰の赦しなどいらないのだ、と、
だが俺はお前を赦したい、お前に赦されたい、
もういいんだ終、お前は赦されていいんだ」

真っ直ぐに終を見る。
あれ程アベルに似ていると思っていたのに、
何故だかその終の顔は違って見えた。
そっとその頬を両手で包む、
終は驚きに眼を見開いたまま、それでも直哉を真っ直ぐ見た。
( そうだ、それでいい )
( お前は )
( アベルじゃない )

「お前は生きていっていいんだ」
終は、何も云わず、
立ち尽くして、
そしてゆっくりと頷いた。


10:エピローグ

世界は変わらない。
赤い空は東京を覆い尽くし、世界は人の手の届かぬ力が跋扈する世に
成って仕舞った。
けれども此処に今ここに奇蹟とも云える存在が在った。
確かに奇蹟は在るのだ。
「おはよう、気分はどうだ?」
全てのベルを吸収してから終は眠ったままだった。
意識を手放して、まるで生まれ変わるように、昏々と眠り続けた。
そして七日後の朝、彼は目覚めた。

「わからない」
終は不思議そうに己の手を見つめ、そして
静かな瞳で直哉を見た。
実感がわかないのか若しくは感覚が掴めないのかしばしば不思議そうに
手を開いたり閉じたりした。
その酷く彼らしくない人間染みた仕草に直哉は微笑を漏らす。
「おまえは生まれ変わったんだ、」
生まれ変わったのだと直哉は云う。
不思議に思って手を動かしてみるが終にはどこも変わったところは
見受けられない。
魔王に成ったというのならもっと禍々しいものになるのかと思っていた。
けれどもどうやら矢張り規格は人間のもので、何がどう変わったかなど
まるでわからない。
直哉は終に手を伸ばし、そっとその髪を撫でた。
その優しい手つきに少しの違和感を覚える。
「変わったのは直哉みたいだ」
直哉は少しの沈黙の後、
少し戸惑ったように口を開き、何かを言いかけて
また口を閉じた。
それからまたゆっくりと口を開き
そして終の手を握った。

「おまえはもう赦されていいんだ、お前がお前を赦さないというのなら、
俺がお前を赦す、終、お前は生きていていいんだ」
「直哉?」
何千年、何万年かかっただろう、
この言葉をお前に告げるのに、
己のした罪を神になど赦してもらいたいわけではない、
それが罪だというのならそれでかまわない。
けれど、ただこの弟に、ただひとりの弟に
否、弟では無い、終自身に、
謝りたかった。
「お前は生きていくんだ、こうして続いていく未来へと、自分の足で歩いて、
今度こそお前の望む未来へと生きていっていいんだ
アベルじゃない、アベルの代わりでもない、終、お前自身の未来へと生きていくんだ」
はっきりした口調で直哉が云う。
思えば兄弟で先の話などしたことが無かった。
今を生きるのに一生懸命だというのは云い訳にしか過ぎない。
本当は未来を語ることがお互いできなかったのだ。
怖くて。
死を望む終と、身代わりを求める直哉、
そんな二人が未来を語ることなんて出来なかった。
今、この場で初めて、直哉は終の未来の話をした。
すまなかったと、直哉は言った。
未来の話、考えたことも無い、
けれども直哉の云う通り、未来があるとするのなら、
この手を伸ばしていいというのなら、

だから終は訊き返した。
アベルでも無い、カインでも無い、終自身が直哉に優しく
静かで朗々とした新緑の朝のような声色で言葉を紡いだ。
「其処に直哉はいるのか?」
直哉は笑い、そして終の髪に指を埋めた。
「お前がそれを許してくれるのなら」



「刺青、いれていい?」
「ああ、何を入れるんだ」
「何がいい?」
「そうだな、」
できるのなら、と直哉は囁いた。


「お前と同じ蝶がいい」



二匹の蝶は鮮やかに彩られ、
寄り添い生きていく。
それこそが望んだ未来だと確信して
今度こそ間違わないように、
真っ直ぐと続く未来を生きていくのだ。

「屹度綺麗な蝶が描けるよ」
彼は笑った。
今までに見たことが無いほど人間らしい顔で
生まれたばかりの、まるで蛹から羽化したばかりの蝶のように、
優しく鮮やかに、微笑んだ。


蝶になるひと

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