「終(つい)、大丈夫か?」
篤郎が心配そうな顔で終の額に手をやる。
柚子は水を汲みに行っている。
もう三日も終わりつつあった。
ベル・デルを倒し、皆憔悴しきっている。
「あのベル・デル、妙なこと言ってたな、ベルの王がどうとかって・・・」
云、とどうにか終は返事をした。
かなり苦しそうだ。
突然山手線内側が封鎖されて、こんな先の見えない状況が続いて、
この異常事態に、終の容態が心配だった。
懸念した通り、終の顔は青白く、いつもよりずっと
具合が悪そうだ。終はゆっくり頭を振ってから少しの沈黙の後、
「多分」と言葉を加えた。
「事態は俺達が思っている方向とは別の方に動いてる」
「別の方って?」
篤郎はいつだって終の身を案じている。
柚子がいなければ篤郎だって前には進めない。
悪魔が出没する東京、実際に人だって死んでいる。
略奪や暴動の可能性だって否定できない。
もういつ中の人が暴走するか篤郎にもわからなかった。
悪魔も確かに恐ろしい、けれども人の方が余程恐ろしいと身に染みてもいた。
しかし今はそれ以上に終の崩壊寸前の精神状態の方が心配だった。
途中何度か終に直哉から預かっていた鎮静剤を与えて
どうにか持ち堪えているのが現状だ。薬だって無限にあるわけじゃない。
今は精神状態は落ち着いているが一時も終からは目が離せない。
( 何を考えてるんだ、ナオヤさん・・・ )
こんな状態になって終がどうなるのか予測できない筈は無いのに、
終を試すようにCOMPを寄越し、悪魔召喚プログラムを与え、
そしてベル・デルを倒させた。
あれほど終を第一に行動していた人が突然行方不明になって、
終を見捨てたのかと思えばメールを寄越したり、そうでもないようだった。
篤郎にはそれが歯痒い。
「ナオヤさん、どういうつもりで・・・」
「終、水汲んできたよ」
柚子が戻ってきた。手にはペットボトルが三本、人数分だ。
電気は相変わらず止まったままだったが水が手に入る状況で
本当に良かったと思う。まして今は夏だ、水は絶対必要だった。
大丈夫?と終の額に柚子も手をやる。
少し熱が高い。終を寝かさなければならない。
できれば屋根のあるところがよかったが、屋根のある場所は大抵
先に避難している人達に陣取られていて無理そうだった。
已む無く公園のベンチをひとつ確保して終を寝かせた。
「ほら、篤郎、そこのタオル取って」
柚子も最初こそ混乱が激しかったが、今はどうにか落ち着いている。
否、落ち着いたというよりは眼の前の終の衰弱の方が激しくて
それでどうにか踏みとどまっていると云う方が正しかった。
柚子だって本当は辛い筈だ、しきりに家に帰りたがっている。
時折酷く落ち込んだ様子も見せた。
でも終の前ではどうにか柚子は普段通りを装っていた。
だからこそ篤郎は自分が確りしなければと思う。
そう思わなければ駄目だった。一度崩れれば柚子も終もそして
自分も駄目になってしまいそうだった。
嫌な、予感だ。
これがあと数日続けば終は本当に駄目なんじゃないかと篤郎は思う。
柚子もそれは同じだろう、終の憔悴の酷さからしてそれは遠い未来とも
思えなかった。近く起こりうる恐れていた現実、だからこそ誰もそれを口にできなかった。
口にすれば終はその腕の刺青の蝶のように儚く消えて仕舞いそうだからだ。
「わたし、近くに薬局がないか見てくる」
「危ないから俺も行く、」
「でも・・・」
女の子をこんな夜中に歩かせるわけにはいかない。
外には明かりが無いのだ。
終を振り返れば終は心得たように頷いた。
「ごめん、二人とも」
「アツロウ、やっぱり終は置いていけないよ」
「そうだけど・・・」
終の自傷癖を考えればこのままいなくなって何処かで死んでしまうことだって
考えられるのだ。終を置いてもおけないが柚子をひとりで行かせるのも
躊躇われた。女の子だ、万一のことだってある。
「終、」
終を見れば、苦しそうだ。
熱が上がってきているのだろう。
このままでは自傷しなくたって身体が病気になって仕舞う。
「大丈夫、どうせあまり動けないから、篤郎が心配するようなことは
出来ないと思う」
恐らくベル・デルの力を吸収した所為だ。
終は弱弱しく頷いた。
「じゃあ直ぐ戻るから、絶対其処から動くなよ!」
絶対だぞ、と念を押す篤郎に終は頷いた。
「ねぇ、篤郎、」
「なんだ?他に欲しいものでもあるか?」
ううん、と終は首を振った。
綺麗なだけにその様子が痛々しい。
「直哉は、」
「ナオヤさん?」
「直哉は直哉だけど、多分」
多分、と終は付け加えた。
「多分、直哉じゃないよ」
言葉の意味がわからないまま篤郎は曖昧に頷いて、
そして柚子を伴って公園を出た。


傍らには焦がれてやまない『弟』が居る。
熱が上がって意識が朦朧としていて
直哉が傍に立っているなんて認識できていないだろう。
篤郎と柚子が離れるのを待ってから注意深く辺りを確認し
直哉は終の前に立った。
辺りには人ひとりいない、文字通り誰もいない、
この場には熱に苛まれる終と直哉しかいなかった。
モバイルPCのモニタが表示するバイタルサインの通り、終の衰弱は酷い。
「体温三十九度八分、高いな」
末端とは云え、ベル・デルを倒したのだ。
その力を吸収した反動で身体に変調を来していると考えるべきだろう。
しかしその反動も長くは続かないと予測する。
次のベルの相手とやる頃にはベル・デルの力を完全に己のものにしている筈だ。
終の脈を確認し、手にしたケースから注意深く注射器を取り出す。
手際よく抗生物質を注入し、終の細い血管へとゆっくり突き刺した。
( 直哉は直哉だけど、多分、直哉じゃない )
先程の終の言葉には驚かされた。
成程、ロキの云うように直哉が思っているより終は『知って』いる。
聡い終のことだ、何となく察していたのかもしれない。
もしかしたら彼はとっくに世界がこうなることを知っていたのかもしれなかった。
「底知れんな・・・」
我が『弟』ながら恐ろしい。
だからこそ彼には無限の可能性がある。
精神が病んでいなければ、今度こそ、彼こそがベルの王に成れる筈なのだ。

「そして取り戻す、今度こそ、俺の弟を」

直哉、と微かに終が呟いた。
直哉はそっと愛しい『弟』の手を取り、
生き残ることを願った。


07:盲目の魂

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