終をバイクで学校まで送り届け、ヘルメットを外すと
タイミング良く篤郎が顔を出した。
「おはようございます!ナオヤさん!」
「ああ、」
篤郎は終(つい)の姿を確認し、にこにこと終に挨拶をする。
あと数分もしないうちに柚子も来るだろう。
「後は頼んだ、俺は今日は仕事場で作業してから夜、モラリストへ迎えに行く」
「はい、じゃあまた!」
昨夜の件は朝の段階で篤郎には連絡している。
ネット経由で知り合った木原篤郎という少年は少なくとも今直哉にとって必要な人材だった。
幼馴染の柚子だけではどうしてもカバーできない部分をカバーして貰うのにちょうど良かった。
終からは目が離せない。直哉の眼の届かない所はこうして終の面倒を篤郎や柚子に
頼んでいた。終の病気は少し難しい。
身体は健康、十七歳男子にしては細いが発育も悪くは無い、
それに終は直哉が油断できないほど頭が良かった。
調子が良い時はユーモアがあって、人を笑わせたりすることも
出来る、けれどもその反面、ついさっきまでまともだったのに
次の瞬間には終が自制できない程の衝動で自傷を繰り返す。
鬱とも少し違うそれは殆ど人格交代に近い。
(実際に彼の人格は終ひとりであったが)感覚的にそう表現するのがぴったりだった。
だからこそ終自身自分の行動が予測出来ない。
これで終が死を、己の自傷癖を恐れてくれれば良かったが
悪いことに終は己が死ぬのを望んでいる節があった。
故に性質の悪い病なのだ。
篤郎と連れだって校舎に入る終を確認してから直哉はバイクのエンジンをかけた。
これで夜までは篤郎にまかしておける。
青山の仕事場で今日中に詰めたいプログラムがあった。


「来島、今日はお昼食べれるか?」
くるしま、と苗字で篤郎は終を呼ぶ。
それは終が己の名前を好いていないからに起因するので
終のまわりで終を名前で呼ぶのは保護者代わりの直哉しかいなかった。
篤郎の言葉に終は曖昧に返事をする。
しかし篤郎は確認をするように終にもう一度問うた。
終は降参と云うように手をあげ、手にした包みを見せる。
彼の兄とも云える直哉お手製のお弁当だ。
「直哉にサンドウィッチをひとつは完食するように約束させられたよ」
包みの中はサンドウィッチらしい。
殆ど毎日直哉は終の食事をきちんと用意する。
コンビニで調達する時もあるが、それでもだいたいは直哉が
キッチンに立って栄養バランスの取れた食事を用意した。
中を見れば案外凝っている内容で、ターキーとチーズのサンドと
エビとアボガドのサンドだった。終は少し重たそうに溜息を吐き
それからエビとアボガドのサンドウィッチの方の包みを開く。
篤郎が心配そうに見る視線に気付いたのか終は手にしたペットボトルの水を飲んでから
罰が悪そうに微笑むので篤郎は少し安堵の息を漏らす。
終は昨日篤郎が帰った直後にまた手首を切った。
直哉からあれほど云われていたのに、ほんの少し、直哉と篤郎が
入れ替わる少しの時間に終はやって仕舞った。
それが篤郎には気掛かりだったのだ。
柚子が居れば女の子の前だからなのか終は少し安定する。
けれども常に柚子が貼りついているわけにもいかない。
柚子は女の子で、事情は理解しているもののちゃんとした両親が居るのだ。
だからこそ両親が海外で殆ど独り暮らしの篤郎が
終の家に、つまり終と直哉の二人が生活する来島の家に半分同棲みたいな感じで過ごしている。
終は普段非常にまともだし、頭がいい、人間的にブレが少なくて大人びている、
一見完璧な存在のように見える。状態がいい時は人あたりもいいし、
終の精神がどこも病んでいなければ学校の王子様みたいな存在になれる筈だ。
けれども時々、生きていくのに耐えれなくなって駄目になってしまう。
だからこそ直哉や篤郎、そして柚子が手を尽くして終を安定させようと
するのだけれど、終自身はそれが皆の負担になっているのだと思っているようだった。
以前自分が死ねば直哉は楽になるのだと漏らしたことがある。
その言葉を聞いて本気で怒ったのは篤郎だ。
違うのだ。
終は誤解している、篤郎も直哉もそして柚子も終と過ごす時間を、
終の行動を逐一監視しているようなこんな生活だけれど
終と一緒にいるのが好きだった。
どこか不思議で雰囲気のある美しい友人が大好きで、
一緒に何かを分かち合いたくて、生きるというのは素晴らしいことなのだと
一生懸命壊れて仕舞っている彼に伝えたくて、だからこそ皆、終を支えたいのだ。
だから少しも苦痛ではないと、終に伝えれば彼は驚いたように
その少し青みがかった宝石のように綺麗な眼を見開いて、
有難う、と奇蹟のように微笑んだ。


終の生活は全てが誰かで始まる。
そうするように直哉がした。
本当は直哉が傍に居られれば一番良かったが、それでは駄目だった。
終を生かすということが出来る人間が直哉以外にも存在できないと意味が無いのだ。
篤郎からの定時連絡のようになっているメールを確認してから直哉は椅子に深く腰掛けた。
上を眺めれば無機質な天井とクーラーの送風音、そしてコンピューターの作動音だけが
室内に響く。此処は直哉の仕事場だった。
「今日はいつも通り」
篤郎のメールをチェックし、簡単にリプライしてから
直哉は眼鏡を外し煙草に火を点ける。
「順調とは云い難いな」
終のいつも通りとは学校帰りに『モラリスト』へ寄ることだ。
小さなバーが付いたライブハウスで、メジャーと云うよりも
インディーズの規模の小さいアーティストが集まって小規模のライブを
する、そんな形容の出来る箱だった。
一時でも世界と隔離されて音楽に浸る、その癖箱の名前が『モラリスト』なんて
なんとも皮肉が効いている。最初は柚子に連れられて行っていたのだが
終が二年に上がった頃には柚子抜きで篤郎と行くことも増えた。
(というのも柚子の追いかけているインディーズアーティストが少し大きい
ライブハウスに移動して仕舞ったというのも原因にあった)
終はだいたい家と学校に居る時間以外の殆どを其処で過ごした。
柚子に付き合っているうちにいつしか顔見知りになって仕舞い、
今では出入りも自由になって仕舞ったのだが、終は其処で
誰かに教えてもらったらしいボディペイントに嵌って仕舞い、
いつも床に座って黙々と刺青をやっている。
終の左腕のリストバンドより少し上、肘との間の場所には
蝶の刺青がされている。
最初は痛くないのかと眉を顰めたものだが問うてみれば「痛くない」との
ことだった。鮮やかな模様は目を惹く、自分の腕に自分で
蝶を刻んだのは終らしいといえばそうだった。
蝶以外のモチーフは考えられないほどにほっそりとした美青年というような成りの
終の左腕の蝶は本物と見違うほどの出来だ。
彼はそういったことを非常に要領良くこなす。
そのうちそれが評判を呼んで、終は『モラリスト』で出来の悪いロックの騒音をBGMに
誰かに頼まれて気が向けば刺青の仕事をしている。
無論お金を貰うわけではない、ただいつも誰かが何かしらを終に置いていった。
モラリストの看板も終が手を入れたことから時々そういった仕事をしないかと
誘われている様だったが終自身の精神的な面でそういったことは向かないと
わかっているので他所から持ち込まれた依頼は全て断らせている。
殆ど毎日入り浸っている場所だ。
直哉は手慣れた動作で店の脇にバイクを停め、
それから店前でチケットのチェックをしている男に軽く手を挙げた。
男は直哉を確認すると下を指差した。
終は地下の箱に居る。いつも通りだ。
薄暗い店内に入ると終は床のカウンターの下に座り込んで
ペイントの続きをしている。
隣の篤郎が直哉に気付いて立ち上がった。
これもいつも通り。
終は黙々と蝶を描き、篤郎はその隣でノートパソコンを広げて
直哉が与えた課題を、つまり簡単なプログラミングをしている。
金曜日や土曜日の夜だとこれに柚子も加わって過ごしているのが常だった。
「終、帰るぞ」
時間は十時を過ぎたころだ。
篤郎といつものように終の様子を話してから店を出る。
「篤郎は?」
この後どうする、という意味で終が問えば篤郎は少し考えてから、答えた。
「俺は今日は帰るよ、そろそろ郵便受け見ないといけないし」
「わかった」
週の半分以上は篤郎もだいたい後で終の家に来るが今日は帰るらしかった。
「じゃあ、また明日!迎えに行くから!」
篤郎を見送り終をバイクの後ろに乗せ、直哉はエンジンをかける。
腰に周った終の左腕には蝶の刺青があった。
「綺麗だな」
「そう?上手に出来たと思ってるんだ」
ふふ、と笑う弟は今は機嫌が良いらしい。
「出すぞ、掴まってろ」
鮮やかな蝶は今にも飛びたちそうなほど、美しかった。


02:蝶の刺青

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