※主人公設定違いです。

ドアを開けた瞬間香った鼻をつく匂いに、直哉はまたか、と
溜息を吐きそして足早に浴室へ向かった。
「生きてるか?」
蒼白になった弟の手首からはだらだらと血が流れ、
其処に絶え間なくシャワーの水が当っている。
直哉は手早くシャワーを止めて、浴槽に今にも沈みそうな弟の
触れれば折れそうな身体を抱きあげベッドへと運んだ。

手際よく手首の傷の手当てをする。直ぐ手に取れる位置にある
救急箱から消毒液を取り出しガーゼを当てる、少しきつめに包帯を巻き
テープで固定する。直哉の一連の動作は澱みなく何一つ無駄と云えるものが無かった。
それから熱を測り、冷たい水を浴び続けて震えが止まらない弟を毛布で包む。
落ち着かせる為に背後にあるキッチンに立ち、コンロの上に無造作に置かれた
空のミルクパンに牛乳を入れ温める、その間に抽斗の中にあったバンホーテンの
ココアスティックを取り出し、暖かいココアをカップに注いだ。
そして何も云わずに未だ瞼を振わせる弟を腕の中で抱きしめる。
言葉ひとつ交わさずに、それが何かの尊い儀式にすら見えるような、
否、これは二人にとって確かに儀式であったのかもしれない。
毎度飽く程繰り返されるそれはこうして直哉が抱きしめることで
現実の時間へとゆっくり戻っていくような感覚だった。
それからどのくらいだろう一時間くらいだろうか、
抱き締めていた腕の中の弟が身動ぎ、薄い青みがかった瞳を数度瞬かせる。
彼のその仕草は意識が戻ってきた証拠だった。
そして状況を把握した弟は漸くぽつりと言葉を吐き出した。
「何だ、まだ生きてる、」
酷く退屈そうに、飽く程に繰り返しては失敗するそれに対しての
彼の感想は何の感情も籠っていない、そこにどんな意味が込められているのかすら
見えない。透明な水であるのに、限りなく水底が見えない、そんな感じだった。
「残念だったな」
云、と弟は呟きすっかり冷えたココアを口に含んだ。
「不味いだろう、淹れ直す」
立ち上がろうとする直哉を制止して「いらない」と弟は云った。
「味なんてよくわからないからどちらも同じだ」とそう云った。


弟は死にたがりだ。


死ぬ、ということを弟は定期的に試みる。
これはもう完全に病気と云える種のもので、彼は常にその病に晒され、
健全であるごく僅かな部分でさえ徐々に病んでいっている。
いつもそれを寸での所で止めるのが直哉の役目であった。
もう五年もこの生活をしていればいい加減慣れるというものだ。
「終、」
つい、と直哉は呼んだ。
呼ばれることで弟は焦点の定まらない視線を直哉に向ける。
名を呼ぶというのは比較的効果的に弟を現実へ引き戻す。
弟は、[ 来島終 ]という名を持っている。
普通に読めば [ くるしま しゅう ]、しかし呼び方は [ くるしま つい ]、だ。
終わりという名を与えられた弟は「つい」と名付けられそして名付けた親に捨てられ
心が壊れて仕舞った。否、もっと昔から終は壊れていたのかもしれない。
「その名前、嫌いなんだ」
綺麗な顔を僅かに顰め、終(つい)は直哉を見た。
己の名前を嫌悪する弟、無理も無い、弟の居場所を突き止めて初めて
その名を知った時、酷い名前を付けたものだと直哉でさえ眉を顰めたものだ。
終わり、終焉、ただ終わる。
まるで絶望だ。
終の産みの母は終が生まれたことが世界の終りであるかのように嫌悪した。
だから終は己の名を好きではない。
まるで絶望のように感じるからと、彼の透明な聲はそう云っているようだった。
直哉はその細い身体をきつく抱きしめ目を閉じる。
そうして静かに優しく彼に言葉を返した。

「知ってるよ」

それは冬の終わりのような冷たさと静けさを以て
死んだような空間に響いて消えた。
腕の中の弟は細く今にも消えそうだった。


そのまま夜明けを迎え腕の中に収めていた終は漸く寝入ったらしい。
微かな、ごくささやかで静かな呼吸は彼らしいが、
ゆっくり胸が上下しているのを確認して直哉は安堵の吐息を洩らす。
彼が起きないのを確認してから丁寧な仕草で直ぐ傍のベッドまで運んだ。
終(つい)の、弟の寝顔をぼんやりと眺める。
閉じられた長い睫毛はその造りもののような顔に綺麗な影を落としている。
こうして穏やかに寝ている時だけは彼は幸せそうだった。
( 否、夢では救われないか )
夢は彼に取って苦痛でしか無い。
彼の眠りは決まって悪夢だ。
だからできれば夢の見ない眠りを、このささやかな朝に願うしか無かった。
「お祈り?」
「起こしたか、」
「ううん」と終は首を振る。
「うっすら意識はあったんだ、直哉俺をベッドに運んだでしょう」
「すまない」
弟を運ぶのに神経を使ったつもりだが終の眠りは浅かったらしい。
気にしてないからもうこの話はやめよう、と弟の目が訴えてきて、
それから「今何時?」と終はその形の良い唇を開いた。
「六時五分、まだ寝てていい、学校は送る」
「篤郎は?」
「今日は学校へ直行だそうだ」
「ん、わかった」
何か食べるか?と問おうとして終を見れば既に瞼は閉じられている。
まだ夢うつつのようだ。
ケットを彼の身体に掛け直して、それから直ぐ傍の床に座る。
そしてノートパソコンを開いてベッドの傍らで仕事を再開した。
ちらりと視界に終のほっそりとした手首が見える。
昨夜直哉が手当した傷が生々しい。
白い手首に白い包帯。
なまじ終自身が生きているということに希薄なだけに
それが一層終を人間ではない何かに魅せた。
( 希薄ではいけない )
そう、駄目なのだ。
( 終には何としてでも生きてもらわなければならない )
そう、
何故なら彼は


01:彼は生まれながらにして弟である。

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