昔むかし、古い古い時代、カインとアベルという兄弟が居ました。 直哉の目的はこれだった。 全ては清夏をベルの王にする為だった。 そして清夏は直哉の前に立った。 それだけで眩暈がする。立っているのがやっとだ。 この中で、この封鎖の中で、直哉の身を案じてもいた。 けれども、日にちが経てば経つほどに、直哉が何の為にこうしたのか見えた。 それがわかってきた。 見たくないと思っても真実が清夏の前に向こうからやってきた。 「直哉、俺に魔王になれっていうのか・・・?」 その為の清夏だ。 清夏にしか成れないというのならそうなのだろう。 直哉に出来るならこの兄はとっくに自分で魔王になっている。直哉はそういう人間だ。 いつから?最初から? 清夏の従兄として産まれ清夏に出遭い、その全てが仕組まれていたとしたら? 直哉はその為に清夏を育てた。 その為に清夏を大事にした。 好きだと、云った。そうなのだと思った。けれども直哉はそれを間違いだと否定した。 『忘れろ、俺はお前の望むような在り様ではいられない、今のは失言だ』 あれはこのことをわかっていたからではないか。 直哉は全てを知っていたのだ。 そのことに清夏は頭を殴られたような感覚を覚えた。 くらくらする。 目の前の直哉はさも当然のように、被虐の限りを尽した非道な王のように清夏の前に立つ。 人を愚かだと云い、そして清夏に己の手を取れと云う。 「最初から・・・?最初から全部直哉は知ってたの?」 「そうだと云ったら?」 静かな聲だ。 直哉の聲、安心するその聲。 その手で、その大きな手で指で撫でられるのが好きだった。 そんな兄が清夏はとてもとても好きだった。 震える。何故、どうして、と問うにはもう遅すぎる。 直哉の手を取れば世界が終わる。少なくとも今の世界は終わって仕舞う。 その決断をしろと、直哉は云う。 「俺を好きだと云ったのも嘘?」 嘘。嘘ならそう云って欲しい。 全ては欺く為だと云われた方が余程救われる。 こんな所業、まともじゃない。普通じゃない。 でも直哉は清夏の兄だった。従兄で、兄弟のように育った。 そんな直哉を清夏は簡単に切り捨てられない。 清夏は直哉を見た。 直哉は、一瞬目を閉じてそれから、「嘘だ」と云った。 「あれはお前をこちらへ誘導するためのものだ、そうだろう?清夏、俺はお前を『愛している』何度だって云ってやるさ、お前は俺を利用すればいい、お前は其処に居るだけでいいんだ後は俺が全て上手くやってやる」 真っ直ぐに清夏を見る直哉はいつもの直哉だ。 そして清夏はその青みがかった目で直哉の視線を受け止めた。 だから気付いた。気付いて仕舞った。 そして清夏の目頭が熱くなる。 泣きそうだ。 だって……噫、気が付かなければ良かった。 「嘘だ」 直哉は嘘吐きだ。 今この場で、嘘を吐いている。 嘘だ。嘘ばかり、嘘で固めて、今こうして清夏の前に立つ男は世界一嘘吐きだ。 直哉の手が震えているのだと清夏は気付いて仕舞った。 当たり前のように己の手を取れと云う直哉、サロメを愚かだという直哉。 それこそが人の本質だと云う直哉。 でもそれは嘘だ。 直哉は人の善なる部分も知っているのではないか。だから愚かだというのではないか。 世界をこうして仕舞ったのに、直哉はこんなにも孤独に見える。 それを想うと清夏は直哉の手を取ってやりたくなった。 手を取ってこの孤独な兄を抱き締めてやりたい。 でも、取ればこの世界は終わるのだ。 震える。どうして?何故、自分なのだろう? 何故清夏と直哉でなければならなかったのだろう? あんまりだ。 こんなのあんまりだ。 直哉を取れば世界が終わり、世界を取れば、屹度直哉は消えて仕舞う。 直哉を留めておかなければ清夏には直哉が永遠に孤独に見えた。 「嘘だよ、直哉、直哉は俺のことが好きなんだ」 弾かれたように直哉が目を見開いた。 そう直哉は嘘吐きだ。嘘吐きなんだ。いつだって、そうして清夏の知らないところへ行こうとする。 「いいや、清夏全ては間違いだ、俺はお前が思うような人間ではない、それだけだ」 わからない。わからないのは直哉だ。 それなら最初から清夏を抱きこめばいいのに直哉はそうしなかった。 その癖、最後の最後に清夏を好きではないと嘘を吐く。 「間違いじゃないよ」 「俺は間違えた、何処で間違えたのか、お前の育て方か、何にせよ、決めるのはお前だ」 早く断罪しろという直哉の態度に清夏はついに確信した。 直哉は自分が許せないのだ。 何処で間違ったのだろうという。或いは最初から間違っていたとも云う。 けれどもそうでは無い。少なくとも清夏は直哉が間違っていると思わない。 直哉が何かを成そうとして清夏を巻き込んだのは事実だ。 でも今直哉を前にして、清夏はわかった。 「直哉は俺が好きなんだ」 「それを信じるのか?愚かな『弟』だ」 「そして直哉はこの現状が間違っていると思っている」 「・・・・・」 沈黙は肯定だ。 直哉は屹度後悔してる。 だから清夏に嫌われたいのだ。断罪されたくて自分を追い込んでいる。 「俺は直哉が好きだ」 好きだ、と云われて直哉は揺れた。 「清夏・・・」 噫、崩れ落ちそうになる。 清夏にはわかっているのだ。 見破られている。 直哉のこの愚かな想いも虚勢も。何もかも全部悟られて仕舞った。 そうだ。直哉は清夏を愛している。 たまらなく、叫びたいほど愛している。 こんなこと、こんな風に想うのなら愛などいっそなければよかった。 否、愛があるからこそ人間なのか。 情欲の伴う愚かな愛。破滅へと向かう愛だ。直哉はそれしかしらない。 穏やかな愛などいくつもの人生を、数えきれないほどの人生を過ごしても得られたことなど無かった。 かつて愛した者も居た。それなりに好ましい者もいただろう。けれどもその全てを直哉は利用した。 利用して殺し、或いはその無様を哂い、そして直哉も死に、そしてまた全ての記憶を持ったまま生まれた。 「俺は愚かな男だ、お前が思うような人間では無い、本当に気の遠くなるほどの時間、愚かに生きた、それこそ己の為に。誰かの為に何かをしようなんて思ったことも無かった。ただの一度も。利用する為に近付いて、或いは唆し、世界を動かした」 直哉は生まれて、それこそ気の遠くなる時間を生きて初めて清夏の前に立つことを恥じた。 愛した。愛して仕舞った。これほどの感情を持って欲しいと思った人間に初めて会った。 離れれば離れるほど想いは増して最早直哉にはどうしようも出来ない。 けれども自分は汚れている。ありとあらゆることをして、本当に酷い人生というものを何度も送って、その都度根底にあったのは如何に自分の思い通りにするか、そればかりで。なのに、愛を知って仕舞った。今更、今更どうしろと云うのか。 「今更だ、今更のことだ。創世の時代からいくつも繰り返し、何度も何度も、思い通りに生きてきた。お前のように曇りの無い清廉な人間では無いんだ、清夏、俺は、」 これが、真実だ。 無様な話だ。 御伽話にもならない。不格好な道化の話。 仕組んだのは自分で、遅すぎたのも自分だ。 気付かなければ良かったとさえ、直哉は今、想っている。 「なのに、俺はお前を縛る愛が見つかればいいと思っている」 「お前の愛が得られないのなら、俺を要らないと云え、そう云ってくれ、清夏。そうすれば俺はやり直せる。全てをリセットしてまた永劫に続くこの呪われた生を全てを恨みながら生きながらえる。いつも通り。でなければ俺の手を取れ。そうすれば俺はお前に愛など囁かず、お前の望むように永遠にお前を守る。何者からもお前を守って見せる。神でさえも、俺が、俺のみの力で討ち滅ぼして見せる」 噫、崩れる。 崩れる、と清夏は思った。 直哉は後悔している。終わりたいと思っている。 清夏を傷付けることがわかっているからそれを悔いている。 それは清夏を愛しているからだ。巻き込んだ。巻き込んでこうして仕舞ったのに、直哉はそれを悔いている。 それを想うと清夏は泣きたくなった。 「直哉・・・俺はゲイじゃないし、直哉とは兄弟だ。兄弟みたいに育ったんだ。従兄弟だ。確かに血の繋がった従兄弟だ・・・だから そんなこと考えたことも無い。本当に考えてもみなかったんだよ、直哉」 でも、と清夏は言葉を足した。 「でもどうしてかな、俺はまだ十七で子供なんだと思う、篤郎達には大人びているなんて云われるけど子供だ。直哉のしていることを間違っていると思う。それは屹度俺が平凡で普通だからだ。でも俺は直哉を見捨てられない。直哉を一人には出来ない」 「・・・・・・」 直哉は黙って清夏を見た。それは互いの決意を示す方法だった。 触れたい。触れられたい。でも、それは出来ない。 生き方があまりに違いすぎる。それでも、と清夏は思う。 「俺はさ、直哉、普通の人間だから普通の生き方しかできないし、世界とか魔王とかわからない。直哉が望むような答えをあげられない。だから直哉、俺は世界を戻すよ、戻すんだ」 戻す、と云われて直哉は崩れ落ちる気がした。 そう、それでこそ清夏だ。 清夏は清廉な綺麗な人間でそれこそ神に愛されるべきアベルの魂を持っていて、だからこそ直哉は清夏の前に立つ資格が無い。己が汚れているから間違ったのだ。 それが清夏の望みなら、それで構わない。 その断罪でも直哉は構わない。 いっそ安堵すら覚えた。清夏がそう云ってくれて、救われた気がした。 だからこそ直哉は今すぐ清夏の前から消えるべきだ。 消えたかった。この世界の何処でもない場所へ行って死にたかった。 なのに清夏は手を伸ばす。直哉に向かって真っすぐに清夏はその手を、伸ばした。 「そのかわり俺はずっと直哉と生きていく、ずっとこれから先ずっと。それ以外を選ばない。俺が直哉とずっと一緒に居る。居続ける。それじゃ駄目だろうか?」 そんな、こと、あるわけない。 だって清夏は直哉の道を否定した。 なのに手を伸ばして、何を云っているのか。 許されないのは直哉で断罪されるべきも直哉だ。 もし敗因があるとするのなら、直哉が清夏を愛したことだ。 ずっとあった望み。清夏を手にして永遠に己のものにできればと愚かなことを願った。 罰だ。全ては罰だ。直哉の生は罰によって彩られている筈で救いなんて直哉には与えられない。 だからそうして何千年も気の遠くなる時間を直哉は一人で生きてきた。 「直哉は植物を枯らすよね、俺ずっと思ってた、直哉のそれが呪いなら、どうしてそうなったんだろうって。俺はね、直哉。直哉が何者でも構わないんだ。俺が俺でしかないように、直哉が直哉ならそれでいいんだ。そんな直哉だから一緒にいたいと思う、一人にはしておけないって思う。どうして俺が植物を育てるか直哉は知ってる?直哉が枯らすなら俺が育てようって思った。沢山の花を育てて直哉を幸せにしたかった、莫迦だよね、子供心にもそんなこと考えてた・・・」 幸せにしたいのは直哉も同じだ。 でも己の汚れた手で、その身体で清夏を幸せに出来るなんて思っていない。 直哉は其処まで傲慢では無い。なのに清夏は云う。直哉を幸せにしたいのだと云う。 「呪いや罪や罰なんて俺にはわからない。天使はそう云っているけれど、俺にはそういうのよくわからないんだ、多分俺が普通の人間で何か特別な事ができるなんて思わないから、でもねそれでいいと思う。そういう人間で俺はいいんだと思う。間違えたらやり直せばいいし、何度でもやり直せると思っている。購えないことが無いなんて俺は思わない。花を育てるのだって俺はいつも間違えた。上手く行かなくて、沢山間違えて、でもそのうち出来るようになった。出来るんだよ直哉。だからね間違えながらもいつかは正しい答えに辿り着けると思う。それが人間だと思う。愚かさも優しさも全部ひっくるめて人間なんだ」 それが人間なのだと清夏が云う。その手がその指先が直哉に触れた。 「直哉、料理が上手いでしょう?俺は作るのが好きで、だから俺が作ったものを直哉が料理するんだ。それって素敵じゃない?俺は直哉と二人でさ、そうやって生きていきたい」 そう、云われると仕方が無い。 折れるしかない。直哉が折れるしかないのだ。 それが清夏の望みだ。この上なく愚かな生を生きる直哉に与えられた唯一だ。 直哉が折れるしかない。 何故なら、清夏を愛しているから。 これ以上の愛をこの地上で探しても何処にも無いほど愛しているからだ。 「まあ、そういう人生も悪くはないな」 その手を、取る。 清夏が居るのなら、それでいい。 その思い出があればいい。この一瞬、この一時に、この言葉を得られたのなら、直哉は生きていけるだろう。 何度も何度も繰り返す生の中で、これは光だ。 かつて失った光が、其処に在った。 「突拍子も無いことを、云う、お前はあらゆるアベルの魂の欠片達の中で、唯一違う答えを出したな」 「俺は俺だからね、背伸びはできないんだ」 「くく、お前のそういうところを『愛してる』さあ、清夏、世界を戻せ」 「うん、そうするよ、篤郎も柚子もそれでいいかな?」 簡単に今日の夕飯を何にするかと問うかのように云う清夏に直哉は笑みを漏らした。 それでいい。それでこそ清夏だ。 直哉の愛する清夏はこんなにも若く、眩しい。 「だが、清夏、それで俺はお前の人生を貰うぞ、お前が約束したのはそういうことだ」 「いいよ、それで」 後悔をするのではないかと思う。清夏はまだ十七だ。人生は長い。 清夏の約束は今後の全てを直哉の為に犠牲にするということだ。 けれどもそれでもいいと云う清夏に直哉は折れた。 全てをあげるから、直哉の望みを諦めろと云われた。 天秤にかけるものでは無い、本来なら選ぶべきは神殺しだ。 けれども直哉は清夏を選んだ。 それでいいと思えた。 断罪が、或いはまた兄弟で殺し合うのかとさえ思ったのに、清夏のもたらした答えは直哉の想像を遥かに越えてやってきた。 「生きて行こうよ、直哉」 そうして世界は戻った。 何も無かったように。何も始まらなかったように。審判の夏は終わった。 蜃気楼のようにあの夏は終わったのだ。 08:夏の幻 |
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