夏。
夏だ。暑い夏。恐らく人生で一番暑い夏だった。
山手線の内側が封鎖されて、COMPを渡され、悪魔召喚プログラムを駆使して戦う、そんな有り得ない夏。
「直哉さん、何を考えてこんなこと・・・清夏、大丈夫か?お前・・・本当に・・・」
心配そうに清夏の顔色を伺う篤郎に清夏はなんとか微笑んでみせるが、ぎこちない笑みだろう。
だって今清夏の顔は真っ青だった。
ベルの王位争い、そして山手線の内側に閉じ込められて、悪魔が跋扈する中で、直哉が清夏達を巻き込んだ。
こんなの、こんなの考えてもみなかった。
こうなるなんて、どうして想像できる?
ただ直哉と元に戻ったのかもしれないと清夏は思っていた。
封鎖が始まったのは、この事態に巻き込まれたのはその矢先のことだ。
そして日数が経てば経つほど、事態が呑み込めてくる。

これを仕組んだのは直哉だ。
直哉を探さなければならない。直哉が何の意図をもってこうしたのか清夏にはわからない。
わからなかったがこんな恐ろしいことを直哉が、あの兄のように慕っていた男がしたのだと思えなかった。
否、思いたく無かった。
直哉の影がちらつく度に清夏は慄えた。
だって、こわい。怖いに決まってる。
直哉が何の為にこうしたのか、何の為に清夏達三人にこのCOMPを渡したのか。
考えてはいけない。考えて仕舞うともっと恐ろしいことになる気がする。
「大丈夫・・・大丈夫だよ篤郎、柚子、行こう、次のベルを倒さないと・・・」
遠くから自分を見ている直哉に清夏は気付くことも無く、そして世界の運命を決める夜が来た。


07:六日目の夜に。


「直哉・・・」
震える聲で清夏が云う。
当たり前だ。こんなことを仕出かしたのは直哉だ。
そうなるようにした。その中で清夏がどれほどの苦しみを負うのか直哉は知って実行した。
生きる、生き抜く、必死でそうしてきた。そうして辿り着いた。
ベルの王位争いの話だ。
王位に就いて、世界を決めろと、直哉が云う。
あまりのことに清夏は眩暈がした。
目の前の直哉をかろうじて見つめるのが精いっぱいだった。

「よく来たな、清夏」
顔色の悪い清夏を直哉は見つめる。
この数日ずっと見てきた。ずっと。
何度手を伸ばそうかと思ったかしれない。でなければ不測の事態が起きて全てが終わればとも思った。
自分の苦しみも愚かな行為も何もかも全て。
巻き込むつもりはなかった。
そんな虫の好いことを今更清夏に云える筈も無い。
巻き込んでしまってからまして直哉が清夏を愛しているなどと云える筈も無い。
直哉の口から洩れるのは嘘だ。嘘ばかり。
だからこそ清夏に自分の手を取って欲しい。
けれども取って欲しくも無かった。
篤郎と柚子が直哉を睨む。直哉はいっそ愉快に笑みを作って見せた。
そう、自分が仕組んだ。直哉こそ元凶であり、直哉こそが憎まれるべきなのだ。
愛していると気が付いた。もし清夏が己の手を取れば何者からも守ると約束しよう。
神にだって触れさせはしない。清夏は直哉のアベルであり、そして愛する者だからだ。
復讐したい。それは変わらない。己をこんな存在に貶めた神を直哉は憎んでいる。
けれどもこの長い生の中でこれほど相手を想ったことがあっただろうか。
非情に計画して、実行して、それで終わる筈だった。
なのに愛した。愛に気付いて仕舞った。
気付いたなら、もう直哉は己の所業に立ち尽くすしかない。
清夏に選ばせるのは直哉だ。
酷いことをしているのだとわかっている。
それでも止められない。
もう動き出したものを止める術を直哉は持たない。
直哉が死ねば終わりではないからだ。
清夏は真実を知って仕舞う。直哉の目的を知って仕舞う。
そうすればそこにあるのは軽蔑だろうか、利用されたのだと清夏は傷つくだろうか。
それを思うと直哉は絶望した。
他でも無い己の所為で、直哉は愛さえも失うのだ。
「清夏・・・」
さやか、と口にすれば直哉は自身の膝が崩れそうになる。
崩れては、いけない。直哉は悪でなければならない。今もこうして罰を背負っているように悪でなければならない。
清夏に酷いことをする兄でなければならなかった。
じんじんと痛む頭で想う。もし清夏が直哉の手を取らなければ?
そして直哉は清夏が己の手を取る筈も無いと思っていた。
だってそうだ。清夏が直哉を許す筈が無い。世界をこうして審判の時に陥れた直哉を許す筈が無い。
残るのは拒絶だ。それもわかっている。
その絶望が直哉には手に取るようにわかった。
何千何万と気の遠くなるような時間、生まれて死んだ直哉にはよくわかった。
人はそういう生き物だ。
所詮自分本位な生き物だ。それこそが人であり直哉の望む人の在り様だ。
だから直哉にはそれを責めることは出来ない。先に仕掛けたのは他でも無い直哉だ。
もし、もしも清夏への愛をもっと前に気付いていたらこれは止められたのだろうかとも思う。
けれどもそれは既に遅い。遅すぎた。今更始まってしまったことを無かったことには出来ない。
だからこそ直哉は哀れな道化のようにその舞台で踊るしかなかった。

「サロメを知っているか?」
「・・・美しい踊り子の・・・?」
「そう、サロメは傲慢だった。お前はあれをどう見る?ヨハネを欲し、王に望むままの褒美をやると云われて、踊りによって首を欲した女だ。愚かな、愚かな女、そうだ。この俺と何も変わらない、心底人間だ。自身の威厳の為にヨハネの首を落とすように命じた王も、愚かなことを強請った女も、首を落とした兵士も皆人間だ。わかるだろう?清夏、人とはそういう生き物だ」
「・・・直哉・・・」
「お前もいい加減わかれ、それが人の本質だ、この六日間お前は何を見た?人の愚かさだろう?自分の為だけに、己の利益と保身の為に政府は俺達を此処に閉じ込めた。中では多くの人間が死に、暴動と略奪が起こり、殺しあう狂宴が繰り広げられている、そんな愚かな人間達をお前は救う力がある。或いは支配する力が。それだけの力がお前にだけ許されている。清夏、お前はベルの王になるんだ」

こんな、ことが言いたかったのではない。
こんなことを・・・清夏に云いたかったわけではない。
言葉に詰まる。詰まってはいけない。直哉は道化でなければならない。
動き出した歯車は終わるまで止まらない。
此処に世界の存亡がかかっているのだから直哉が下りるわけにはいかなかった。
本当は、本当はこの愛に気付いてから、どうやって清夏をこれから逃れさせるかを考えた。
どう考えても無理なのはわかっている。それでも、駒では無く、アベルでも無く、或いは彼がアベルそのものだとしても直哉は清夏を愛している。今生で出遭って弟を、アベルの魂の欠片を持つ清夏を愛して仕舞った。
幸せにしてやりたい。神を討ち滅ぼし人類の真の自由と繁栄を叫びながらも自身はこんなに傲慢だ。
たった一人愛した者を幸せにしたい。それだけだ。
追い詰められた者が家族だけは守りたいというように、或いは戦争で沢山を殺したくせに恋人だけは助けたいと懇願するように、一個人に、人類全体のことを考えればたった一個人にしかすぎない清夏を直哉はどこか此処では無い遠くへ逃がしたかった。
自分が招いた事だ、直哉がそれで滅ぶのは構わない。けれども清夏だけは助けたい。こんなことを知らないまま、こんな直哉の姿を知らないままでいて欲しかった。叶うのなら直哉はとっくにそうしている。清夏を遠くへ逃がしている。けれども清夏は全ての中心だ。そうするように直哉が据えて仕舞った。計画は止めらない。あらゆる事態に備えてあらゆる事を想定した。でもその中に清夏を逃がすというプランは無い。何故なら全ての中心は清夏だからだ。ベルの王位争いに巻き込んで人の手でバ・ベルを意のままに操り魔王に据える。それが目的だ。仮に清夏が死んで全てが駄目になるというプランはあっても、清夏を逃がすプランなど何処にも無かった。或いはロキに頼んで、直哉が、あのロキに頭を下げて清夏を逃がそうとも考えた。けれども最早それも叶わない。遅すぎた。気付くのが遅すぎた。運命の歯車は廻って仕舞った。直哉はこの愛に気付くのが遅すぎた。
彼を自由にしてやりたい。或いはこの七日間をなかったことにしてやりたい。
それは不可能だ。直哉が巻き込んだ。直哉がそうなるように仕向けた。彼がアベルの魂の欠片を持っているとわかって引き込んだ。
利用して、従兄で兄の立場を利用して、そう仕向けた。

「俺の手を取れ、清夏、お前には全てを治め更にそれを凌駕する力がある」

だから無理だ。
彼の望むように穏やかな普通の暮らしを与えてやりたい。今生は諦めてまた次の千年後に賭ければいい。
清夏を愛している。清夏を当たり前の人間みたいに直哉は愛して仕舞った。
植物を育てる彼、彼はかつての自分を彷彿とさせた。
ただ穏やかに、何者も殺さず、かつて羊飼いだった弟は直哉の愛した大地を育てている。
まるでそれが出来ない直哉を、カインを救おうとするように。
思えばそれは直哉にとっては救いだった。
清夏が植物を育てる度に、昔の自分を思い出す。何もかも普通の人間だったあの頃、世界は光に満ちていた。父と母は知恵の実を食べてエデンを追放されたが、エデンの外で生まれた最初の人間、直哉にとっては其処がエデンだった。
楽園だった。あの日が来るまで。あの愚かな審判が下る日まで、其処は直哉のエデンだった。
なぜ殺したのだろう?後悔は無い。ただ激情があった。
許せなかった。そんな風に人を創った神を許せなかった。
なのに己は限りない程に『人間』だ。
清夏を愛して仕舞った。愛していると気付いて仕舞った。
堪えがたい感情が溢れそうになる。けれども直哉は云った。
想いと反対の事を口にした。
嘘は慣れている。誠実で無いことは当たり前で、卑怯なのは全てで、誰かを騙しそうして何度も生きてきた。
人とはそういうものだと鼻で哂いながら、直哉はそうしていくつもの生を生きてきた。今更何を善人ぶるというのか。
だからそのくらい平気だ。
なんてことは無い。
愛している子供に、残酷な言葉を囁くだけだ。

「さあ、清夏、ついに俺達で神話と創世をやり直そう」

取って欲しい、取らないで欲しい。
或いは己を恨んでいるのなら、今すぐ清夏の手で殺して欲しかった。
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