直哉が頭を抱える一方で当の清夏はいつもの日常に戻っていた。
戻ってはいたがどうにもぼんやりとする。このところ清夏はぼんやりとしていることが増えた。
篤郎にも注意されたことだが、直に期末が終われば夏休みだというのに清夏の気分は晴れない。
「最近色気が出たって云われてるけど、早い夏バテか?清夏」
「色気ってなんだよ・・・」
呆れたように清夏が言葉を返せば鞄を纏めた篤郎が清夏の前に立った。
「憂いの表情がまたイイんだってさ、校内モテ男ランキングTOP5にもう入るんじゃないか?」
「そういうの今はいいよ・・・」
正直そんな気分になれない。
清夏の悩みの種は何よりも直哉である。
あれから直哉は一度も清夏と顔を合わせていない。
仕事が忙しいと、この間のことに一切触れずに直哉は清夏にメールだけを寄越した。
反して清夏はと云えば矢張り直哉に問うことができず、結局何も云えないでいる。
だって困る。もし直哉に真意を問いただして、本気だと云われたら?反対にもし、ただの気紛れだと云われたら?
気紛れだと云われた方がいい、その方がいい。いいに決まっている。
なのに清夏はそう云って欲しいとも云えなかった。
どちらも清夏にとってはショックだ。だって本気だと云われたら引き返せない。自分と直哉は従兄であり、直哉は清夏にとっての兄同然の男だ。良い訳が無い。それはわかっている。十分に分かっている。
だから否定してほしい。ただの間違いで、気の迷いで、実はあの時直哉は酔っていたでもかまわない。間違いであって欲しい。
間違いであって欲しいのに、その答えに行き着くのにも躊躇いがあった。
大人っぽく見えても清夏は十七歳でまだ高校生だ。
女の子との関係はあっても男とは勿論無いし、直哉となんて考えたことも無い。
一度目は酔っていた所為だ。二度目も、三度目も、ずっと直哉が酔っていた所為だ。清夏もそう思えるし納得してもいた。
でもこれは言い訳ができない。兄のように思っていた従兄の仕打ちは清夏を酷く困惑させた。
けれども逆に云えば清夏はそれが嫌ではないのだ。厭だったのは突然だったからで、嫌なのは清夏の同意を得ずに直哉がしようとしたことで、直哉とのそれが嫌だとは思っていない自分に清夏は愕然とした。
なのに直哉は突然清夏と距離を取った。まるでそれが間違いだったと態度で示すように距離を取った。
それが少なからず清夏にはショックだった。真意を質すにせよしないにせよ、いつものように直哉が何でも無い顔で来てくれれば清夏の混乱も少なかっただろう。けれども実際清夏は知らないが直哉の仕事が立て込んでいたのもある。それでも直哉は清夏に会う時間は作れた筈だ。それなのに直哉はあれから一度も清夏の前に姿を現さなかった。
用があればいつも携帯にメールをするだけ。清夏の様子は下の店でオーナーに訊けばわかることだったし、何より清夏の食事の世話は今まで通り直哉がやっている。清夏が学校でいない間に家に入ってやっているのだ。何時の間に合鍵をとったのか、プランターの横に隠してあるスペアキーは未だに土の中に埋まったままだ。
家に帰ったら勝手にご飯が作ってあって、何が何処にあるとか直哉の字でメモが置かれてあって、ご丁寧にも洗濯物までしてくれて・・・でも直哉はいない。そんな生活がゴールデンウィーク以降二ヶ月近く続いていて、いい加減清夏も苦しかった。

「直哉さん、忙しいの?」
篤郎は直哉の一番弟子を自負している。
「そうみたい・・・」
「俺一昨日話したけど・・・あ、って云ってもスカイプのチャットだけど・・・」
「ふうん」
ああ、そう、篤郎とは話すんだ・・・と清夏は内心少しやさぐれる。だってそうだ。清夏は直哉とここのところメールの遣り取りさえ覚束ない。仮に話せたとしても何を話していいのかもわからないけれど。
「二ヶ月近く会ってない」
清夏の言葉に篤郎が「嘘!」と悲鳴をあげた。
「うそだろ?直哉さんが?清夏に二ヶ月も会ってないなんて、そんなのあるわけないじゃん」
直哉の口煩さは篤郎もお墨付きである。これまでの実態を知っているだけに篤郎も驚きの新事実である。
「本当だって、ご飯とかは勝手に作っていってるから家には来てるみたいだけど・・・」
「喧嘩でもした?」
「・・・喧嘩っていうか・・・ちょっと、色々あって・・・ごめん、説明はできない」
「困ってないか?」
優しく問う篤郎に清夏は笑みを漏らした。こういうところで篤郎は良い奴だ。
素直で優しい、そんな篤郎に清夏は感謝した。
「うん、大丈夫、正直ちょっと参ってるんだけど・・・まあバイトあるし、夏休みには落ち着くよ」
どうせ夏休みが始まれば嫌でも何処かで顔を合わせるだろう。だから大丈夫。
大丈夫だとその時は思っていた。
「あー!」
篤郎は清夏の返事に頷いた後、突然良い事を思いついたように手を打ちながら聲をあげた。
「篤郎?」
「俺さ、直哉さんにパーツの調達頼まれて、それで昨日アキバを駆けずり回って探したんだよ!」
「うん?」
「だからさ、それ直哉さんにどうせ届けないといけないんだって、まあ玄関のドアにぶらさげとけって云われただけだけど・・・」
「それで?」
「もう・・・鈍いな、清夏は。直哉さんに二ヶ月近く会ってないんだろ?そういうの良くないって!だからさ、俺と一緒に今から直哉さんとこ届けに行こうよ!」
「・・・でも・・・」
でも、と言い淀む清夏に篤郎は肩を叩いて云う。
「大丈夫だって、これなら変なことないし、清夏は俺の友達で直哉さんの弟じゃん、顔見るくらいいいだろ?直哉さんだってなんだかんだ云ってきっと清夏のこと心配してるよ、チャットでもそれとなく清夏のこと訊いてきたし・・・それに直哉さんもしかしたらいないかもしれないじゃん、今日は清夏、バイト休みだろ?」
いないかも、と云われると清夏は行ってみてもいいかな、と思う。確実に居ると云われたらなんとなく行きにくかった。
直哉の仕事場には清夏も何度か顔を出したこともあるが、仕事の邪魔をしたくないし、大抵直哉は清夏が行かなくても自分から清夏の所に来た。だから清夏は困っていたのだ。今までこんなに直哉に避けられたことが無かった。いつも直哉から清夏に来ていたから清夏から直哉の所へ行くのは気が引けた。
だから、篤郎の提案は清夏にも良いように思えた。
少なくともこのまま悶々とするよりはいいかもしれない。直哉に会えば案外何でもないように以前のような距離に戻るかもしれない。なんでもない従兄弟で兄弟の関係になるかもしれない。問い質したいわけではない。答えを訊くのは怖い。
でも、会うくらいなら。会って様子を見るくらいならいい気もした。
「うん・・・じゃあそうしようかな・・・」
「じゃあ、決まり!」青山へゴーと云う篤郎に引かれるままに清夏は直哉の仕事場へと足を向けた。





「それで・・・?」
久しぶりに見た顔は間違いなく直哉だ。
整った顔に少し疲労が見える。余程忙しいのか直哉の目の下に隈が出来ていて清夏は眉を顰めた。
「これパーツです!頼まれてた・・・!」
「ああ」
直哉が篤郎の差し出したパーツを受け取り型番を確認する。なんでも見つけるのが難しいパーツらしくて調達に苦労したのだとか、篤郎が手短に直哉に話して直哉がパーツ分の代金を篤郎に支払った。
清夏は黙ってそれを見る。とりあえず疲れているようだけれど、仕事をしているのならそれでいい。直哉が生きてるなら別にいい。
清夏がほっと安堵の息を漏らしている間に篤郎が手を上げて退散して仕舞った。
「じゃ、俺帰るんで、兄弟で積もる話もあるだろうし・・・」
積もる話って何?と清夏が篤郎に突っ込む前に篤郎はそそくさと帰って仕舞う。
沈黙が居た堪れなくて清夏が顔を伏せても直哉は何も云わなかった。
「・・・あ、久しぶり・・・」
「ああ・・・」
「元気、そうには見えないけど・・・会えてよかった・・・」
久しぶりだ、直哉の聲を聴くのも、直哉に会うのも。
直哉の顔が見たくて清夏が顔を上げる。
けれども直哉は清夏が顔を上げると逸らした。
「ご飯・・・有難う、洗濯物も・・・」
「ああ・・・」
「直哉、俺・・・」
「清夏、悪いが忙しいんだ、帰ってくれないか?」
云いかけた言葉の続きを云えないまま清夏は眼を見開いた。
直哉は忙しいと云って清夏から背を向けて仕舞う。
「あ、うん、そうなんだ、じゃあ、また・・・」
兄弟だ。直哉とは兄弟のように育った。従兄弟同士でも物心ついたころから傍に居た。
だから初めてだった。
直哉から拒絶の言葉を聴いたのは清夏にとって生まれて初めてだった。
ギイ、と締まる金属の扉を背に清夏は階段を下りる。
ぼんやりとする。通りを歩いて、振り返ることもせずに、ああ、帰って新しい苗を植え替えないといけなかった。肥料を買い足して、部屋を片付けて……なのに何もする気が起きない。
どうしてだろう、と清夏は思う。
そうして其処で思った以上に直哉に追い返されて落ち込んでいるのだと、清夏はその時初めて気が付いた。
直哉がそれを見ているとは知らずに。

直哉は満杯になった灰皿に忌々しげな顔をして灰を棄てる。
煙草の灰は灰皿から滑り落ちて床を汚して仕舞った。
けれどもそれも気にならない。
清夏だ。
あれ程直哉が避けていた清夏に会った。
どうせ篤郎がいらぬ気を利かせて清夏を連れてきたのだろう。清夏が一人で此処に来ることは考えにくい。
だからこそ直哉は焦った。篤郎の背後に清夏を見つけて酷く動揺した。
あれから直哉は随分自分の内心を整理したつもりだ。
清夏は直哉にとって失えない駒であり、成さねばならない目的に必要不可欠な存在だ。
けれどもそれ以上に直哉は清夏を必要としている。
肉体的にも精神的にも、直哉は思ったよりずっと清夏を愛している。
少なくとも他の男と出掛けて激昂する程に愛しているのだ。
一度自覚するとそれは箍が外れたかのように溢れ出す。
清夏に触れたい、清夏の髪に触れて頬に触れて、そして唇に触れたい。
こんなにも清夏に飢えている。
今直哉が清夏に会うのは危険だ。飢えたオオカミの前に子羊がいるようなものだ。
己を自制できる自信が直哉には無い。離れて余計に清夏が欲しいのだと清夏に飢えているのだと直哉は自覚した。
この二ヶ月がどれほどの苦痛か。悪魔召喚サーバーの構築で忙殺されているからまだいい。
気が逸らせる。けれども少しでも時間が開けば清夏のことばかりだ。
今何をしているのか、どうしているのか、一人なのか、誰かといるのか、何を食べているのか、ちゃんと眠っているのか、そんな取り留めのないことばかりが直哉の思考を奪う。
清夏、清夏、さやか。
そればかりだ。
直哉は自覚した。はっきりともうこれは覆せないほど、誤魔化せないほどはっきりとしたものだ。
直哉は清夏を愛している。これ以上ない程、清夏だけが欲しい。
清夏を手にして、犯して、お前しかいないと囁いて、或いは全てを奪って、身を焦がすような情熱に呑まれたい。
けれどもそれでは駄目だ。
駄目なのだ。既に歯車は回りだした。
もう遅い。他でも無い直哉が清夏と出会った瞬間から時間をかけて作り出したものだ。
もう引き返せない。どうしたって仮に直哉が清夏を手にしても引き返せない。
審判の夏が始まる。始まって仕舞う。
幼い清夏と直哉が血縁として出遭って仕舞ったその瞬間からこれは決まっていたことだ。
もう遅い。清夏を愛していると今更気付いたところで引き返せない。

「清夏、すべてが終わっても・・・」
お前は俺を愛してくれるだろうか、そう思う。
そんな愚かな問いをする自身を直哉は嘲笑った。
通りを歩く清夏の背を見つめながら直哉は手にした煙草の灰を落とした。


05:審判の
夏が始まる
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