朝顔だ。
きっかけは朝顔だった。
何もかもの始まりは其処だった。

「朝顔の種、貰ったんだ」
「学校の授業のやつだろう」
あの時清夏はまだ小学校低学年で直哉はそんな清夏よりずっと大人だった。確か直哉が中学三年だったか高校に入ったかくらいだったと思う。
朝顔の種を授業で貰って、鉢に植えた。
それを持って帰って、余った種も家に在った鉢に植えようとした。
授業で先生がやってくれたみたいに上手くできなくて清夏がもたついていると直哉がやってきた。
直哉はいつも誰とも遊ばずに、毎日同じ時間に帰ってくる。清夏が友達と遊んで遅くなると決まって迎えにくるような兄だった。
思えばあの頃……否、それ以前からずっと直哉は清夏にとって一番近い存在だった。
強請ればいつでも遊んでくれて、何でも教えてくれる兄だった。あの頃は直哉の事情なんて知らなかったから清夏は直哉が本当の兄だと思っていた。最もそれは今でも同じだ。清夏にとって直哉は掛け替えのない兄である。従兄だと両親や或いは直哉本人の口からきいてもピンと来ないのが現状だ。
だからその時も当たり前に七つ年上のお兄ちゃんに教えてもらおうと思った。
直哉は色んなことに詳しくて、中でも植物に関してはとても詳しかった。だから子供心にも直哉は植物が好きなんだと思っていた。だってそのことを話す時の直哉はいつも遠い眼をして何処か懐かしそうに云ったから。
「上手くできないんだ」
「簡単だろ、その土と隣の土を混ぜて、馴染ませてから鉢に入れるんだ」
「うん」
清夏が小さな手で一生懸命土を混ぜて直哉の云う通りに鉢に入れる。鉢のサイズもまちまちだったから子供には一苦労だった。でも種がいっぱいあるから植えてあげないと可哀想な気がした。
だから清夏は幼い手で懸命に朝顔が育ちやすい環境を作ろうとした。
清夏が土を零してしまっても直哉は決して手伝わない。言葉で云うだけで手を出そうとしなかった。
だからそれが少し寂しくて、だって直哉はいつも清夏と遊んでくれたから、何をするにも一緒に居てくれたから、だから寂しくて直哉も手伝って、と清夏は強請った。
「それはお前が植えるんだ、その方が朝顔が喜ぶ」
「どうして?直哉じゃだめなの」
「俺は、嫌われてるんだ」
「朝顔は直哉が嫌いなの?」
「朝顔に限った事じゃない、忌々しい呪いだ」
「のろい?」
「もういい、深く考えるな」
「直哉もやろうよ」
「じゃあ一つだけだ、清夏、俺が嫌われてるかどうかそれでわかる」
直哉は小さな鉢を取って手際よく土を入れて、清夏と同じように種を植えた。
清夏は直哉と一緒に出来たことが嬉しくて無邪気に喜んで、毎日一生懸命世話をした。
直哉の云う通りに世話をした朝顔は沢山咲いて、一番綺麗に咲いた朝顔だと学校新聞にも載った。清夏はそれがとても嬉しかったのを覚えている。
けれども清夏はその時、直哉が『嫌われている』という意味を理解した。
どういうわけか直哉が植えた鉢からは芽が出なかった。
清夏は一生懸命世話をしたし、他の鉢からは芽が出て綺麗な朝顔が咲いたのに、直哉のものからは何も出来なかった。
初めは、偶々運が悪くて種が駄目だったんだとも思った。
けれどもそのうちそれが嘘じゃないんだと確信するに至った。

直哉は植物に嫌われている。
切った花なんかはいい、収穫された野菜も大丈夫だ。
けれども土に植えてあるものは皆駄目だった。
直哉が触ると駄目になる。
それこそまるで呪いのように、直哉が触ると何故か皆数日で枯れた。
だから直哉は極力植物の類には触らないようにしているのにも気が付いた。
それが呪いなのかどうか清夏にはわからない。けれども直哉がそういう『体質』なのだと清夏は理解したのだ。
子供の頃、あんなに嬉しそうに清夏の育てた朝顔を見た直哉は、決してそれに触れようとはしなかった。
触れることをしなかった。



「・・・夢・・・」
随分懐かしい夢を見た。子供の頃の、清夏が育て始めたきっかけの夢。
ぼんやりとする頭で清夏が身体を起こしてベッドサイドの時計を確認すれば朝の六時だ。
三階のロフト部分は清夏の部屋だ。直哉が泊まる時は二階のリビングダイニングにあるソファがベッドになるので其処で寝ていた。
……と云っても直哉が清夏と生活したのはごく短い期間だ。今は直哉は仕事が忙しくなって、仕事兼住居として青山に居る。
だから専らその大きなソファベッドを使用するのは篤郎であったが、今日は篤郎は泊まっていない。清夏一人だ。
清夏は身体を起こしてからリビングに降りて端に添え付けられた洗面台で顔を軽く洗い、それから珈琲を淹れた。直哉が用意してくれた朝食とお弁当用の昼食を解凍している間に、この家のあらゆる場所にある植物の世話をする。
既に暖かくなってきたので温室は必要ない。テラスの窓を開けて、プランターを一つ一つ確認しながら水を遣る。
珈琲を一口啜ってから、屋上に上がり、野菜の世話もした。朝露の付いた野菜はどれも瑞々しい。収穫時のトマトを籠に入れてから清夏は学校の用意をする。
何てことは無いいつもの朝だ。
携帯を見れば直哉からのメールがある。予定の確認のメールだ。けれども送信時間が夜中の三時過ぎである。清夏が起きているわけが無いしそもそも清夏は寝ている間、携帯の電源を落とす癖があるのでそれを熟知している直哉だからこそこんな時間に送ってきたのもわかるが、我が兄ながら直哉の生活にはやや呆れる。清夏の面倒は殆ど完璧に或いは少し口煩いくらいに見る癖に、自分のこととなるとてんで駄目なのだ。直哉は。
そもそも夜型の生活だし朝に起きていたところを見たのは直哉が学生の間だけで、基本的に直哉はそういう生活的な部分でルーズなところがあった。
逆に清夏は自らの生き甲斐とも云っていい園芸の趣味のお蔭か朝は早い方だ。
一緒に住んでいた頃は此処まで直哉も酷くは無かったように思う。別々に住み始めてからだ。
それならまた一緒に住めばいい。青山を仕事場にして此処から通ってもらえば良いだけの話である。
けれどもそれを清夏から切り出すのも気が引けた。
理由はいくつかある。

例えば清夏の育てていたプランターのいくつかを直哉がうっかり触って枯らしてしまったりとか、或いは直哉の仕事が軌道に乗って単純に忙しくなって仕舞ったとか。
けれどももっと深い決定的な理由があった。
少なくともあったのだと清夏は思っている。
あれは去年の冬のことだった。もう半年も前の話だ。
その日清夏は遅くまでバイトに入っていて、土曜日の夜だったから凄く忙しかった。客が満杯で、あちこちからオーダーが入って、清夏は十一時に上がる予定だったけれど、残って欲しいと店長に云われて、本当なら高校生だから遅くまで働いたらいけない。でもこうして凄く忙しい日は別だ。普通のバイトだったら此処まで云われないのかもしれないけれど、店長は父の友人であり、昔からの知った人だ。おまけにホールのバイトの一人がインフルエンザで休んでしまっていて人手も足りなかった。だから仕方なかった。
清夏が解放されたのは夜中の一時半を過ぎてからだった。その日はそんな風にとても疲れた日だった。
二階の自宅に戻ってみれば既に戻っている筈の直哉の姿が無い。
と云ってもフリーのプログラマーとして独立したとはいえ直哉はまだ大学で院に籍を置いている身だ。大学に上がってからは直哉は飲み会だとか学会の集まりだとか断れない付き合いもあって帰宅が深夜になることもあった。だから別段気にしない。案の定清夏が携帯をチェックすると直哉からのメールが何通か届いていた。
「心配性・・・」
メールの内容は、本来なら十一時に帰宅する清夏に宛てられたもので、やれ戸締りをしろだの、シャワーで済まさず冷えるから風呂に入れなどそんな内容だ。清夏は苦笑しながらバスルームに足を向け、バスタブに湯を溜めた。
確かに冷える日だった。今は冬に強い植物以外は皆テラスを温室にして其処に仕舞っている。もっと寒さに弱い植物はテラスの中に小さなガラスの温室を作って其処で栽培していた。湯を溜めている間に清夏は苗のいくつかを確認して、忘れないように肥料の入れ替えのチェックをする。土の類は屋上でコンポストを作っているので問題は無かったが、ほかに買い出さないといけないものもいくつかあった。冬の間は植物があまり活発では無いので然程手入れも必要無かったが、今のうちにしておかなければいけないこともある。季節の盛りの内に摘んだハーブ類は乾燥させてキッチンの端に吊るしてあるが、そろそろ仕舞わなければならない。そんなことをつらつら考えている内に湯が溜り、清夏は寒い室内の温度を調節する為にエアコンを操作してからバスタブに浸かった。バスルームと云っても部屋の一部を区切って床の一部分をタイル張りにしているだけのスペースだ。パーテーションを取り払って仕舞えば部屋と同化して仕舞う。父が建てたこの家はもともと店舗向けに作った為に扉で区切られているのはトイレしか無かった。
直哉に云われた通り、清夏はいつもよりゆっくり浸かって風呂からあがる。風呂を上がる頃には部屋も適温になっていて、軽装でも問題なかった。簡単に着替えて、清夏は髪を拭きながら冷蔵庫からペリエを取り出す。取り出したところでメールを送った張本人が帰宅した。時刻にして深夜の二時過ぎだった。
「直哉?おかえり」
「ああ・・・」
帰ってきた直哉は何処か疲れたようで聲に抑揚が無い。
「飲んだの?」
「ああ・・・」
胡乱気に直哉がコートを脱ぎ捨て、怠そうにソファに座る。
額に手を充てているところを見ると随分飲んだらしい。
「お水要る?」
「・・・・・・」
応えの代わりに手を振られて清夏はコップにサーバーにあるミネラルウォーターを注いで直哉に手渡した。直哉はそれを一気に飲んでから息を吐く。
「ベッド行ける?」
直哉のベッドはリビングに置いてある。元々ワンルームだ。清夏がロフト部分を使っているだけで部屋に区切りは無い。直哉のベッドはソファにもなる大きなベッドで、テラスに面した端に置いてあった。自力でも行けるだろうがこのままでは直哉は此処で眠り兼ねない。清夏は直哉に手を貸しベッドまで誘導した。
「さやか、」
「何?水もっと要る?」
直哉は何も云わない。何も云わないからこそ、その時清夏はああ、これはまずいな、と思った。

瞬間、清夏の見ていた景色が反転する。
直哉に思いもよらない力でベッドに押し倒されて圧し掛かられる。
顔が近づいてきて、清夏は場違いにも改めてこの従兄は酷く顔が整っているのだと思い知らされた。
「直哉、酔ってるでしょ」
「さやか」
あ、くる、と思った。
直哉の唇が清夏に近付いて、それから口付けられる。
それも深く。思ったよりもずっと早い動きで、思わぬ性急さで直哉は清夏に口付けた。
「なおやっ、」
それもとびきり深いのだ。
直哉は酷く酔うとこうしてキスしてくることがあった。
清夏にとってこれが初めてでは無い。
初めてでは無いが、いつもこの兄のするこの行為に清夏自身戸惑いがあった。
従兄で兄のような直哉が、清夏を組み伏せて口付けているのだ。混乱もする。だってどちらも男同士だ。
おまけに直哉のキスはしつこくて、清夏は息があがる。
ねっとりと、舌を合わせて歯の裏まで舐めるような絡めとるキスだ。
直哉はそういうところでテクニシャンなのか正直に上手い。最初された時はショックで仕方無かった。だってその時清夏は十四だった。そして最悪な事に直哉はいつもそれを覚えていない。翌朝は何事も無く清夏に接するのだ。
これで何回目だろうと清夏は思う。
年にそう何回も無いから通算で七、八回くらいだろうか、とにかく直哉のしつこいほどのキスは清夏を溶かした。
「・・・っ」
それでも我慢すれば終わる。ただの酔っ払いのちゅーだ。別になんてことは無い。犬に舐められたくらいのものだ。清夏はそう思うようにしている。これに他意は無い筈だ。直哉はそれこそ彼女らしい人を見たことが無いけれどモテるのは確実だったし、直哉のキスは明らかに恋人にする種類のそれだ。だからただの酔っ払いの気紛れ。口寂しくなって手近にいた清夏に手が出ただけ。
だから直ぐ終わる。
そう、思うのにその日は何故かすぐに唇が離れなかった。
たっぷり十分くらいされて、息があがって、挙句清夏は身体が疲れていた、バイトで忙しかったし、深夜で、お風呂上りだから汗は気にならないけれど、疲れていた。だから思わぬ直哉のキスに身体が敏感になっていた。
「・・・あ、」
直哉の唇が離れてこれで終わりかと思った瞬間、直哉が清夏の首筋に顔を埋めてきた。
「直哉?」
首筋を舐められて、シャツに指が入ってきて、いつもと違う状況に今度こそ清夏は混乱した。
「・・・ちょっ・・・直哉、誰と間違ってんの?直哉!」
慌てて清夏が身体を起こして、直哉を押しのけて、それでも強い力で直哉が清夏を組み伏せて、一体このインドア系の筈の従兄の何処にそんな力があるのか、直哉の筋肉は確りしていて明らかに清夏が不利だ。
「・・・っ」
直哉の指が清夏の素肌に触れてその冷たさに清夏が悲鳴を上げた時に唐突に、直哉の動きが止まった。
「直哉?」
なんとか清夏が身を捩らせて背後の直哉を振り返れば眠っている。漸く落ちたようだ。
直哉に抱きかかえられたままでは居心地が悪いのでなんとか清夏は直哉の腕から逃れようとしたがぴくりとも動かない。
結局疲れもあって清夏は其処から逃げるのを放棄して、眠ることにした。どうせ直哉のベッドは長身の直哉に合わせたサイズで広いのだ。清夏が寝ても問題無い。とりあえず布団を引き寄せて清夏も直哉に抱えられたまま眠りについた。

翌朝、清夏が目を覚ました時直哉はいなかった。清夏も疲れていたから珍しく寝坊したがそれでも朝の九時だ。
日曜だったのに直哉はとっくに出かけたらしく直哉が居た筈の場所も冷えている。
いつものように直哉が作った朝食が置かれて、やっぱり何も無いいつもの日常だった。
いつもの兄弟の関係。何も知らない普通の兄弟。
あれは酔っていた。直哉はいつもより酔っていた。だからそういうことがあったけれども清夏は一度も直哉にそれを問うたことは無い。ただ直哉はそれから直ぐに青山の仕事場に引っ越した。衣類も全部持って行って、スペアキーも持たずに月曜には消えていた。
それから最低でも週二回以上は会うけれど、何でも無い兄弟だ。
直哉と清夏はその話を一切しなかった。だからこそ、気の迷い。ただの酔っ払いの手癖、もしかしたら直哉は覚えているのかもしれないと一瞬だけ思ったが、それを問う事さえ清夏はしなかったのだ。


ただ時折思う。あのキスがきっかけで直哉がこの家を出たのではないかと、ふと思うのだ。


02:冬の話
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