ぐらぐらする。 多分頭の中が暑さで変になっているのだろうと思う。 一瞬目の奥がちかちかして真っ白になった。 だからこれは白昼夢。 夢のような物語の記憶。 司の知らない司の記憶。 * 直哉はペシミストだ。 司から見れば直哉は厭世的な生き方をする人だった。 幼い頃から司は従兄である直哉と一緒に居た。ずっとずっと物心ついた頃から一緒に居たのだ。 直哉は無口だった。あまり話をしない人だった。 天才と云われた従兄は司にだけ色んな話をして呉れたが、その言い方もいつも素っ気ないものだった。 綺麗な顔をしているのに勿体無いと子供心に何度思ったかしれない。 思えば直哉はいつも不機嫌だった。 不機嫌か無表情。そのどちらかだ。幼い頃からその調子で、司はいつもこの不機嫌な従兄と一緒に居た。 直哉は優しくない。どちらかというと冷たい印象を受ける。優しくもなければ、大きな感情と云うものを露わにすることも無かった。だからずっと司は直哉に嫌われているのだと思っていたものだ。 けれどもこの従兄は司が困っていると必ず手を差し出した。 何も云わず。矢張り少し不機嫌そうにどうすればいいのかと司に示した。 そうして司は直哉の元で育っていった。 忙しい両親は司にあまり構うことも無く、家政婦を雇ったけれど直哉の人嫌いが激しく結局直哉が十二の頃、鷹司の家に引き取られて司の兄となってからは司の世話と自分の面倒を直哉は一人で見た。良くできた従兄で、誰もが直哉を褒めた。だから司は直哉みたいになりたくて一生懸命直哉に追いつこうと必死になった。褒められたくて、或いは父や母に振り向いて欲しくて。 徐々に大きくなるにつれて司は直哉に自分が嫌われているのだといよいよ思ったものだ。 直哉は素っ気なくて、不機嫌で、人が嫌いだった。 そして随分後になって気付いた。 直哉のそれが愛だったことに。 当たり前に大きくなって、司にも少しは周りの出来事が見えるようになって気が付いた。 直哉は何があっても司の面倒をきちんと見た。 司が両親に会いたくて寂しがっていると不器用になんだかわからない難しい話をしたり、司にはわからないプログラムを見せたりして、司はそれに追いつこうと必死になって寂しさを忘れた。 いつもいつも直哉はそうした。 司が落ち込んでいると司の好きなものが食卓にあがったし、司が困っているといつも直哉が不機嫌そうに何かを云った。 後になって思い返せばそれはちゃんと助言になっていてそういうことが何度も繰り返されて漸く司は気付いたのだ。 直哉は司を嫌ってもいなかったし不機嫌でもなかった。 そういう方法でしか表現できない人だった。 長い長い時間そうやって生きてきて、彼はいつしかそういう当たり前のものさえ失って仕舞った。 彼の失った感情が発露するのは神と対峙しているときだけだった。 夢物語のように時折語る直哉のそれ。 嘘のような創世の時代の話。でも直哉が云うのならそれは本当なのだろうと司は思う。 直哉は最初に「俺はお前を殺した」と云ったのだ。幼い司にそう云った。 そして罰を受けたとも。最初から直哉は司にだけ真実を話した。 何度も何度も真実を司が信じるまで話した。 だからこそ今なら司にはよくわかる。 直哉は愛している。その愛がもう何なのかわからないほど擦り切れても、それでも愛している。 それはアベルであり神であり、世界であり、人へ向けられたものだ。 何度生まれても己として生まれるのだと直哉は云った。 忌々しい神が人類最初の人殺しの罪を忘れさせない為に罰を下しているのだと。 可哀想なほどに永遠を生きる男はそうして出来た。 罪人として永遠を渡るという兄。その兄が可哀想で、司はいつの間にかこの兄を救う方法を模索した。 だから司は直哉を愛した。 あれはいつのことだろう。 直哉を司が抱き締められるようになってからいくつもの夜を越え、そしていつも其処には胸が痛むような後悔と寂しさがある。 直哉は司を欲した。 だから司は直哉に与えた。 全部をあげることにした。 せめて司だけでもそうしてあげないと直哉はあまりにも可哀想だ。 夜の帳の中で、いつもそんな寂しい戯れがあった。 「ねえ、直哉。終わりのない夜は無いんだ。夜はいつか明ける。大丈夫、必ず陽は上るんだ。だから直哉の夜が明けるまで俺は傍にいるよ」 「明けたら、お前はいなくなるのだろうか・・・」 直哉はぽつりと云う。直哉が笑ったところを司は見たことが無い。寂しい目をした兄の髪を司は撫ぜた。 「それなら」 それならと直哉は云う。 「それなら俺は永遠に明けない夜でかまわない」 お前がいなくなるのなら永遠の暗闇でかまわないと云う。 この男が、この兄が、司は可哀想でたまらない。 その臆病が、その切ないほどの一途さが、彼をまた狂わせたのだ。 司を魔王にすると直哉は云う。全てを終わらせて神を殺すのだと、兄は云う。 兄の言葉に、悲痛なほどの想いに司は寂しそうに笑った。 何か決意を秘めたように。直哉の為に、何かをする為に。 「傍にいるよ、陽が照らして、あまりの眩しさに目が眩んでも、直哉はきっと俺を見失ってしまうかもしれないけれど、」 傍に居る。きっと眼が眩むほどの光が直哉を包んでも、 永遠に続く夜の中を生きた直哉には驚くほど明るい世界でも、傍にいる。 傍に居れば、いつかは眼が慣れて、そして彼は歩き出せるだろう。 今度こそ、本当の人生を、 永い永い、旅の果てを。 其処に辿り着くために、司は此処に居る。 居る筈だ。 司は確かにそう願った。 いつか死がふたりを別っても、永遠の夜を往く直哉に光をあげたかった。 旅の終わりを願う兄を救ってやりたかった。 * あ、と思う。 これは『司』だ。 以前の司。 本当の司の記憶だ。 あれほど自分が誰だか司にはわからなかったのに、夢の中の司は確かに『司』だった。 直哉と居た。 『司』は全てを知っていた。 ぐらぐらと司が揺れる。 頭をシェイクするような感覚があって、それから司の記憶はフラッシュバックした。 事故の日だ。 車が司に向かってきた。学校の帰り、駅の階段を下りたところで。 避けられなかった。死ぬのだと確信した。 でもどうしてか死ななかった。 それは今の司が居る所為だ。 司は、本来の司は本当は助からなかった。それでも司は直哉の為に生きたかった。 だから彼の魂に残ったもので、肉体の死を遠ざけた。 どういう理屈か司にはわからないけれど、とにかく前の司はそれをした。 だから司は今の司に成った。 「・・・じゃあどうしたって・・・」 司は茫然とする。 本当なら死んでいたこの身体。 前の司に戻れるなら、記憶が戻るならそうしたい。今の司は自分が偽物だと思っている。 でも、無理だ。 前の司はもういない。 どうしたって何処を探したっていない。 記憶が無い筈なのだ。 彼は直哉の為に身体を残した。 でも心が消滅してしまった。だからもういない。 全て白紙に戻った。 「・・・いないんだ・・・」 そしてその空っぽの器に今の司が居る。 「・・・夢・・・」 はっと目を開ける。 「司!」 「篤郎・・・」 気付けばベンチだ。 少し顔に異臭がする。 「お前ゴミ箱に顔突っ込んだんだよ、大丈夫か?どっか痛いとこないか?」 「ゴミ・・・?」 「あ、柚子がまた水汲んで来るからとりあえずこの水で顔洗え」 「うん・・・」 そうだった。そういえば司はもう一度記憶を失おうとしてゴミ箱の角を目掛けて頭を下したのに柚子がゴミ箱を後ろに退けて仕舞った為にずれてゴミ箱に頭ごと突っ込んだのだ。 「・・・俺・・・司だよな・・・」 「え?ああ、勿論、お前は司だよ」 篤郎の言葉にぼんやりとしながら司は顔を洗った。 05:消えた彼の話 |
prev / next / menu / |