退院して帰宅した。
家と云われても司には全く実感が無かった。
司が退院して従兄だという直哉に連れられたのは地上五十階のタワーマンションだった。一番上のペントハウス。其処が自宅だと云われても司には全く実感が湧かない。
どうやら司の父親は株だとかFXだとかで成功して、今は海外で経営コンサルタントをしている人らしかった。
母親も同じく海外で、今はアフリカの方で、絵を描いているらしく知名度のある芸術家なのだそうだ。
確かに家だという部屋の広いリビングに通された時、飾りのマントルピースの上に(なんとこの家にはマントルピースがあった)株だとか経済だとかのそれらしい本が何冊か置かれていたし、壁には母親が描いたらしい、よくわからない前衛的な抽象画が飾ってあった。だから二人とも司が事故にあったときも直ぐに来られなかったのだと云う。司の両親は正に絵に描いたような忙しい両親であった。
けれどもその代わり、司には従兄が居た。
ほとんど兄のような存在らしいその従兄の名を直哉と云う。
初めてこの兄を見たとき、司はなんて綺麗な人なんだろうと、思った。
とにかく凄く綺麗な人なのだ。顔の造作も、先天的なものらしい薄い銀に透ける髪も赤い眼も、とても綺麗だった。
二十四歳で、七つ年上の従兄。訊けば仕事はフリーのプログラマーらしい。
誰だかわからなかった。直哉には悪いけれど、司には本当に何も思い出せなかった。
兄は司に、ゆっくりでいい、と聲をかけては呉れたけれど、家に戻っても全く思い出す気配が無い司に、少し悲しそうに哂った。
司はそれを見ると胸が締め付けられるような気がする。
何でもできる兄。優秀で、頭が良くて、木原篤郎と云う前の自分の親友が一度病院に訪ねてきてくれた時に兄のことを教えてくれた。天才プログラマーNAOYA。雑誌にも沢山紹介されていて、司の面倒はそれこそ何でも看てくれて、絵に描いたような肩書の家に生まれて、絵に描いたような暮らしがある。
綺麗だけど、何も無い。
この家を初めて見た時、司がそう感じたように。
従兄だという直哉を初めて見たとき、司はそう感じた。
兄は司から見れば、冷たくて、寂しそうな人だった。

だから司はこの兄との生活に緊張した。
時折鋭く、まるでこの世の全てが憎いかのように赤い眼を細める兄が本当を云うと少し怖かった。
直哉は司には親切で優しい兄だったけれど、他の一切に冷たい人のように見えた。
その従兄の直哉との生活で司は気付いたことがある。
とにかく直哉は、司の傍を離れないのだ。
確かに司は事故に巻き込まれて、意識不明になって、挙句記憶まで飛んだのだから心配なのはわかるが、少し右手の握力が少なくて、あまり強く握ると痺れるような感覚が残る以外では、司の身体は健康だ。確かにまだ傷があって、毎日病院へ行かなければいけないが、それでも直哉がべったり張り付くほどでは無いと司は思っている。
車で送り迎えしてくれるのは有り難い。でも司は電車などの交通機関をごく普通に使えたし、生活に特に問題は無いのだ。過去の記憶が無いのに日常生活の習慣や常識の記憶はあるのだと妙な感心をしたものだ。
だから司は司なりのペースでこの日常に慣れようとしていた。
幼馴染だという谷川柚子という少女や、友人だと云う木原篤郎に会っても司はピンとこなかった。
戸惑う司に彼等は、何か困ったことがあれば云って欲しいという言葉をかけてくれたので好感が持てた。
でも直哉だ。
学校が終わって彼等と帰ろうとすると校門を出て直ぐに直哉が車で待ち構えている。
思えば直哉は司の身の回りの事は全てやった。
文字通り全てだ。洗濯物から、家の掃除から、学校の送り迎えに食事の用意。
これでは直哉は司の母親である。
誰かを雇うとかそういうことはしたことが無いらしく、直哉は自分の領域に誰か他人が入るのを酷く嫌がる性質のようだった。
その代りなんでも自分でこなすのだ。
一度怖くなって、篤郎に直哉は元からこんなだったのか、と問うてみれば、意外にも「前は此処まで酷くなかった」と返された。
要するにこの恐ろしく顔の良い従兄は眼を離せば司がまた事故にあうんじゃないかとか、そういうことを心配しているのだと司は漸く悟ったのだ。

そしてその生活が二週間も続けばそれは確信に変わった。
直哉は過保護だ。過保護というか病的に駄目な部分があった。
天才のお兄さんが居て凄いわね、とか周囲に云われることもあったけれども、正直司は直哉が天才なのかどうかわからない。
司がそれを知らないからだ。直哉は司が学校に行っている間は、青山の仕事場だとか、クライアントのところに行っているらしいけれど、司の学校が終われば必ず迎えに来た。
直哉の頭が良いのは流石に司にもわかる。学校の勉強に追いつくのが必死の司に直哉が勉強を見てくれるが、教え方が的確で、いろんなウンチクを追加しなければ大変わかりやすかった。多分頭の回転が恐ろしく早いひとなのだと司は思っている。
つまるところ司から見れば直哉は常人には追いつかないほど頭が良い癖に潔癖で頑固で偏屈だ。
そのくせ血縁である司に異常に固執した。
家の中は綺麗じゃないと駄目だし、司が自分で包帯を替えることも許さない。司のことは一から十まで直哉はやりたがるのだ。

「司、そんなことはしなくていい、前に云った筈だ」
司が腕の包帯を巻き直しているとアイスティーを手にした直哉が司から包帯を奪って仕舞う。
「緩んだから直そうと思っただけだよ、取り替えてるわけじゃない」
「いいから、俺がする」
アイスティーをソファの前のローテーブルに置かれて、司は怠慢な動作で直哉に頷いた。
ミントが乗せられたアイスティーは直哉が手ずから淹れたものだ。
直哉は自分の食べるものはそれこそインスタントでもなんでも良い癖に直哉は司の口にするものだけは厳重に管理をする。
正直、至れり尽くせりではあったが、司には少々息苦しい。本当に以前はこれが普通だったのか、少し眩暈がする。
いい加減、司としては自分で何でもやりたいのだ。
食事だって、作ろうと思えば作れるし、洗濯も掃除も出来る。確かにこの完璧な兄のようには出来ないかもしれないけれど、それでも司にだって出来る筈だ。なのに直哉は司がやろうとする前に全てをやって仕舞う。
通学用の定期だってあるのに、司は一度通学路の確認で篤郎と電車に乗ったっきり、使っていない。
全部直哉の送り迎えがある。
「夕飯・・・俺が作る・・・」
「お前が・・・?」
直哉は少し口端を歪めてみせた。
無理だと云わんばかりの直哉の態度に司は少し、ム、とする。
「自分の面倒くらい自分でみれるよ、子供じゃないんだし・・・リハビリにもなるし・・・」
「なんだ?反抗期か、以前のお前には無かった兆候だな、興味深い」
「そういうのが嫌なんだってば、直哉俺にべったりじゃん」
「それに何の問題がある、お前はついこの間事故にあって生死を彷徨って未だ通院中の身な上に記憶喪失だぞ」
それを云われると司は反論できない。
確かに、記憶ははすっからかんだ。真っ白、それこそ白紙で、司は今までの十七年間築いてきた繋がりをもう一度築き直さなければいけない。皆可哀想にと司に同情したが、その同情でさえ、司には煩わしい時があった。
だって司は知らないのだ。本当に、目の前で泣いた父や母には申し訳ないと思うし、覚えていないと云った時の、幼馴染の谷川柚子という少女や、親友らしい、木原篤郎の悲しそうな顔を思い浮かべると、謝りたくなる。
医者は・・・先生は、思い出せなくても気にしなくてもいいと云う。
意識の混濁でなければ思い出す方が稀で、記憶を失ったひとは皆、大抵は新しい人生を受け入れるのだと云う。
一から人間関係や自分を構築し直すのだと、先生は云った。
でも司はそう云われても、今の自分より、記憶を取り戻した方が良いのではないかと思う。
直哉だ。直哉の存在が司にそう思わせる。
直哉、多分一番ショックを受けているだろうこの従兄だ。
篤郎から聴いたところによると、司と直哉はまるでパズルのピースがかっちりと嵌るみたいに、自然に、呼吸をするように一緒に居るのが当たり前の兄弟だったらしい。「理想的な兄弟だった」と篤郎が云うのだからさぞかし美談になるような兄弟だったのだろう。
でも司は違う。今の司にはその記憶が無い。司には直哉が誰かなのかさえ思い出せないのだ。
だから、正直に云えば司は直哉と一緒にいるのが少し苦痛だった。
一緒に居ると前の司がどんなだったのか考えて仕舞う。
考えるまいと思っていても前の司を意識して、正解を探して仕舞う。
直哉が好きだった『弟の司』、直哉は正解を探すなと云うけれど、司の思うままにしていいのだと云うけれど、本心では絶対前の司がいいと思っているに違いないのだ。だって直哉は毎朝司が目覚める度に、安心した顔をするけれど同時に、司が前の司で無いことを知って、一瞬だけ暗い顔をする。直哉は気付いていないと思っているだろうけれど、そのくらい司にもわかった。
だから司は自分の居場所が此処には無いのだと思っている。
だって此処にあるのは司のものだ。前の司のもの。
家族も、友達も、この兄も、前の司のもので、今の司のものじゃない。

「直哉、そんなこと言ってたら俺に彼女が出来たり、結婚したりとかしたらどうするんだよ」
司はテーブルに置かれたアイスティーを啜りながら直哉に問うた。
これも前の司が好きだったものなのだろう。甘くてミントの香りが清々しいアイスティー。
でも、今の司にはそれが美味しいとあまり思わない。事故で味覚が変わったのか、甘いものがあまり好きじゃない。
紅茶より珈琲の方が好きだったし、朝に出されるオレンジジュースより学校の昼休みに買う酸っぱいと評判の林檎ジュースの方が好きだ。ちょっとづつ、違う、好きなもの。
そういうものを実感するとき、司は自分が『鷹司 司』という身体に入ったエイリアンでは無いかという気がしてくる。
直哉は丁寧に司の包帯を巻き直してから司を見る。
その赤い眼を綺麗だと思うけれど、司はそれが少し苦手だ。何もかも見透かすような目。
「そんなことしてみろ、俺は死ぬ」
平然と云って退ける従兄に司は眩暈がした。
「死ぬなんて大げさな、そりゃ記憶はいつかもどるかもしれないけど、俺は今自分の事で手一杯だし、ごめんだけど直哉のことも思い出せないんだ。父さんと母さんだって昨日スカイプで話したけれど、やっぱり実感がわかなかった。でもそのうちこのまま記憶が戻らなくても学校はあるし、いつかは独り立ちもしなくちゃいけないんだから、自分の事は自分でできるようになりたい。今は直哉の手を借りないといけないけれど直哉もいい加減俺離れしないといけないと思う・・・けど・・・」
だってそうだ。直哉は今の司に構うより自分の仕事でも自分の友達でも、居るかいないかわからないけれど、彼女とでもうまくやればいいと思う。そうすれば司は司で自分を見つめ直す時間ができて楽だ。少なくとも今の司にはそれがいい。
とにかく司はこの直哉との距離感に戸惑いがあった。司の思う日常的な普通の常識と違った距離なのだ。
直哉と前の司の距離は、今の司が思うよりずっと近かったらしい。
勿論、従兄である直哉からしたら当然の距離であるだろうし、前の司からしてもこれが当然の距離なのかもしれない。
でも今の司から見ると、その距離がおかしい。直哉に慣れようと司も努力はしている。
もしかしたら何かの拍子にあっさり記憶が戻るかもしれないし、家族や友達の目から見ても今の司がおかしいのであって、早く戻るにこしたことは無いのが本音だろう。でも今の司は違うのだ。残念ながら前の司と同じような感性でいられない。多分周りの反応からして性格も違ったものなのだろう。とにかく直哉とこうして四六時中一緒に居ることに司は疲れていた。
直哉には直哉のやることがある。自分に構ってくれるのは嬉しいけれど自分のことも大事にしてほしい。
つまるところ司が直哉に云いたいのはそれであったのだが、直哉はやおら立ち上がって宣言した。

「そんなことしてみろ!俺はここからお前の名前を叫びながら飛び降りる!」
「此処五十階だからやめて、ねえやめて、っていうか窓開かないから・・・」
「割ってでも飛び降りる!」
割ってでも飛び降りるという従兄に司は眩暈がする。
駄目だ。このひとなんかおかしい。
ええと、こういうのなんて云うんだっけ・・・。
「ブラコン・・・?」
「ブラザーコンプレックスか、否定はしないぞ、何せ俺は『筋金入り』だからな」
くらくらする。
今目の前の美形はなんて云ったんだっけ?
ブラコン、ブラザーコンプレックス・・・つまるところ弟バカ・・・。
「変態・・・」
「変態結構、司、夕飯は何がいい?」
立ち上がる直哉に、司は何でもいいと答える。そう答えるのがやっとだ。
けれども直哉は司からアイスティーのグラスを取り上げた。
「まだ残ってる・・・」
「『お前』は、好きではないようだからな、アイスコーヒーを淹れなおしてやる」
「・・・ありがと・・・」

ぼんやりと司は直哉の背を見遣った。
此処はリビングダイニングだから、キッチンの直哉の姿がよく見える。
背の高い兄。
完璧で、美しい兄。
欠点と云えば『弟』に固執するところくらいで、司は改めて右腕に巻き直された白い包帯を見た。
白い、真っ白な包帯。
まるでこれは司だ。
リセットされて仕舞った司。
何も覚えていない司。
目の前には絵に描いたような家族に、絵に描いたような兄弟。
そこに自分の居場所があるのか司には実感が無かった。

「って直哉!なんで俺が紅茶好きじゃないって知ってるの?」
「篤郎にメールで聞いた、お前、学校では珈琲か林檎ジュースらしいな」
「〜〜〜っ!そんなこと聴いて・・・!」
「お前のことはひとつ残らず知っておきたいからな、それこそ自慰の回数まで」
勝ち誇ったように云う直哉に司はいたたまれずソファのクッションを掴んで投げた。
「この変態!」

記憶は無い。
このひとと兄弟だという感覚も無い。
家族も思い出せず、友達も知らないひと。
まるで自分は白く塗りつぶされたキャンバスだと、司は思った。


02:白に塗り潰される。
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