忌々しい、と直哉は舌打ちをした。
魔王城としてそのまま居座ることになったヒルズに
用意した自室はそれなりに機能的で快適だ。
電気も復旧させたので空調も調整されている。
文明の恩恵が息づいている空間だ。
しかしその部屋で直哉は再び何度目かの舌打ちをした。
手近な台にあった調度品を壁に投げつける、
机の上にあった一切を両手で払えば
ガシャン、と沢山のものが割れて落ちた。

「クソッ・・・」
忌々しい、あの忌々しい弟!
羅刹だ、先程云われた言葉が直哉に響く、
直哉をいらない、と云って
あのまま部屋を出ようとした羅刹を腕に捕えて
無理やり犯した。
羅刹は抵抗ひとつせずに、いつもならある筈の抵抗すら
せずに直哉に抱かれた。
成すがままだった。
まるで人形を抱いているかのように、
ただしその眼はもう直哉を見ない。
怒りさえ向けてこない。
それが忌々しかった。
酷く癪に障って、
いつもより一層酷い抱き方をした。
ところどころ直哉の爪で抉った傷からは血が垂れ
背中を酷く引っ掻いたから蚯蚓腫れをしているだろう、
中だって無理に貫いたからズタボロだ。
それでも羅刹は抵抗ひとつせずに聲すら洩らさずに
直哉の好きにさせた。
それが直哉の怒りを頂点に導いた。
そのまま何度も手酷く犯して、並の人間ならあのまま
抱き殺していた。
羅刹は魔王だ、そのぐらいで死にはしないが人間なら
確実に死んでいる。
流した血の量が尋常じゃない。
それでも羅刹は何も云わないかった。
何一つ直哉に応えはしなかったのだ。

その事実に直哉は焦った。
気を失った弟を王座の間に置き晒して逃げるように此処まで来た。
愕然とする。
この手を取ったのはいい、
羅刹は直哉の望み通りアベルとなり、魔王となった。
神殺しは約束されたようなものだ。
けれども代わりに失ったのだ、
失ったのだと悟る。

直哉は羅刹の心を永遠に失ったのだ。
アベルであればよかった。
ベルの王たる資格のある神に愛されし弟の因子、
その力で直哉は未来永劫赦されないこの呪から今度こそ己を開放する。
その為の大事な大事な弟だった。
そうして見事大事な弟は直哉の望み通り万魔の王となり、
世界の覇者と成った。
けれども代わりにかつて在った筈のものを失ったのだ。
( 独りだ )
何処までも独り、
原罪の時から課せられた呪いのように、ずっと独り、
未来永劫自分は独りだ。
そんな己の生の中で眩しく光るのはいつだって弟だった。
アベルであった筈だ。
だからこそ直哉はアベルを求め、アベルを愛した。
永劫に彷徨う直哉にはもうアベルしか残されていない。

だのにこれはなんだ?
どうしたことだ?
これでいい筈だ。
自分と羅刹がどんな関係であろうと問題無い筈だ。
羅刹はこれからも直哉の望みを叶えるだろう、それは間違いない。
けれども代償に羅刹の心を失った。
それに酷く憤りを覚える。
何故お前がそれを云うのか、
何故お前が俺にそんな口をきける、
これは直哉のわがままなのかもしれない。
自分には羅刹しかいないように、
この弟にも己しかいなければ他に心など煩わせることなど
無いのだから、世界に二人だけで帰結されればそれでいい。
他に必要なものなど何も無い筈だ。
だがしかし、弟の野性味溢れる奔放さは日に日に直哉の手を離れていく
それが歯がゆい。
だからこそ同じ場所まで堕ちてくるようにと激しく望むのだ。
( これは切望だ )
直哉は羅刹を求めている。
アベルでは無く、器では無く、
羅刹を欲している。
本能で、心で、魂の底から羅刹の輝きが欲しいと願うのだ。

こんなにも心を掻き乱されて、
何一つ思い通りにならなくて、
忌々しいほどに奔放に生きているように見える弟が
憎たらしくて、そして反面酷く愛しい、
そしてふと気付いた。
気付きたく無いことに気が付いて仕舞った。
「・・・何千年と時を渡って、記憶を継承し続けて・・・」
直哉はカインでありカインは直哉である。
でも弟は違うのだ。
違うのだと確信した。
羅刹は羅刹だった。
いつだってどこでだって羅刹は羅刹だ。
そうして幼い頃から懸命に直哉に手を伸ばした。
縋って来る弟に歪んだ愛情を注いだのは直哉だ。
でもあれは違ったのだ。
( 違ったのだ )
縋ろうとしていたのでは無い、
あれはそうでは無かった。
懸命に伸ばされた手は独り罪を背負い彷徨う直哉に差し出された
救済であったのだ。
羅刹は小さな幼い手でいつだって直哉を救いあげようとしていた。
( 何処へ? )
何処へ行くというのだろう、
父と母はエデンを追放されて、そしてカインはアベルを殺しエデンの東へ追放された。
独り彷徨う呪われた運命のカインに救いなどある筈が無い。
なのに羅刹は懸命に直哉を救おうとしていた。
行く先が何処かなんてわからない、
それでも此処では無い何処かへ行こうとしていた。
何処かへ、いつだって希望に満ちた眼で直哉を導こうとしていた。
( 噫、 )
( 噫、そうだったのか )

やっと気が付いた。
莫迦だ莫迦だと羅刹を莫迦にしてきたけれど
本当に愚かなのは自分だった。
自分の方だったのだ。

( これは恋情だ )

馬鹿馬鹿しい、と鼻で哂った。
ただ自分の支配が羅刹に及べばいいと、
アベルにする為にと、それだけだった。
その筈だったのに、真実は違っていた。
羅刹は直哉の為に全てを捨てた。
羅刹自身が考え掴み取った、現実だ。
直哉がそうさせたのでは無い。羅刹は最後まで直哉を救おうとしていた。
自分と直哉の関係を修復しようとしていた。
それを壊したのは直哉だ。
羅刹はアベルとしての道具なのだと知らしめたのは他でも無い直哉自身だった。

( これは恋情だ )
そして気付いた。
やっと気付いた。
自分は今まで恋愛ひとつまともにしたことがなかったのだと、
振り回されて苛々して、時に殺してやりたいほど腹立たしくもあって、
いつだって思い通りになんてならない生意気な現世の弟、
その手に、縋るその手に安堵していたのは直哉だった。
本当に弱いのは直哉の方だった。
羅刹の真実をひとつも見つめないで上辺だけを愛してると囁いて
嘘と虚飾で塗り固めて羅刹を見なかった。
これは報いなのだ。
アベルを手にした。望み通り手にした。
そしてその代わり、直哉を救う手を失ったのだ。

「ハハ・・・ハ・・・そうか・・・」
直哉は哂う、泣いているのか哂っているのかもうわからなかった。
ただ自分の馬鹿さ加減に愕然とした。

「俺はとっくにあいつに恋してたんだ・・・」

恋だの愛だの莫迦らしいと見向きもしなかった。
上辺だけ塗り固めて支配できると思ってた。
それで良かった筈なのに、何故だろう、
俺は今猛烈に羅刹の手が腕が、その眼が
欲しかった。
掴んで離さず、そうだ、
そうだ、俺は、

「ただ繋いでやれば良かったんだ」

無邪気に手を繋ごうと笑ったあの頃のように、
俺はただ弟の、羅刹の手を繋いでやるだけで
屹度、それだけで良かったんだ。

「それだけで良かったんだな」


08:箱庭の遺伝子
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