自分を取り巻く世界はいつだってつまらなく
ただ其処に在るだけのものだった。
父が居て、直哉が居て、組の人間が顔色を伺うように居て、
そして大抵の我儘は通り、そして直哉への葛藤だけは
変わることが無かった。
そんな当たり前のくだらなくてつまらない世界だった。

「雪風」
静かな聲が名を呼ぶ。
ゆきかぜ、と呼ぶ、
それが何故懐かしいと思うのだろう。
その言葉ひとつで泣きそうになるのは何故なのだろう、
そのくせ、云い様の無い恐怖と崩れ落ちそうになるほどの
罪悪感に苛まれるのは何故だろう。

まるで互いに世界中にたった一人のような気がした。
直哉と雪風、まるで埋まらない二人の世界。
永遠に平行線で交わることの無い自分達、
ずっと昔からそう決まっていたように
ずっと昔からそうだったように、
世界には直哉と自分、埋まらない溝を抱えた二人だけ、
硝子越しの水槽のようだと思った。


硝子越しの水槽





「君の計画通りならもう直ぐ試練が訪れるわけだ」
ふふ、と男が哂う。
否、男は悪魔だ。人成らざるもの、こちらとあちらを行き来する魔の物だ。
「神の定めた試練に人は、否、君の大事な弟はどうするのかな?」
「ねぇ、ナオヤくん」
悪魔が口にする、何百何千年と飽くほど見た悪魔だ。
「自分でアベルを作ろうとは思わなかったの?」
「出来るのなら自分でやっている」
千年に一度、常にやってきた。
その都度埋まらない何かを埋めようとやり続けてきた。
「全て試した。俺の血が入った全ての種はアベル因子を有さない」
「へぇ?」
「呪いだ、アベル殺害後、過去俺の作った子は皆女だ、
男は一人も生まれなかった」
「アベル因子は男にしか発露しない」
「アベルとカインは決して交わらぬものと神が定めた、
忌々しいことにな」





「雪風」と直哉が云う。
その日はどうしてか嫌悪が湧かなかった。
直哉の物云いがあまりにも静かだった所為かもしれない。
直哉は黙って背中越しに座った。
背中に直哉の体温を感じる。
広い背中、自分よりずっと大きな背中、
大嫌いな直哉の背中、
なのに何故か草原を思い出した。
遠い昔あったようなそんな懐かしい故郷のような風景を、
出来ることならいつまでもそのぬくもりの中に居たかったとさえ思った。
けれども自分は今まで直哉のその背にすら抱きついたことは無い、
幼い頃から直哉がどうしてか怖かった。
この義兄が怖かった。
何故怖いのか考えたことも無かった。

「世界は好きか?」

大事な質問だとは思わなかった。
ただの直哉のいつものわけのわからない言葉、
世界が何かなんて自分にはわからない、
好きなものは少しだけ、友人と呼べるものだけ、
他は皆好きじゃない、直哉は、
その世界でたったひとつ『 嫌い 』
だからこう答えた。

「少なくとも直哉よりは」

直哉の背中がゆっくり離れる。
離れて欲しくなかった、どうしてか無性に切なくなった。
自分と直哉の間にあるのは何だろう、
自分の居場所を奪って仕舞った直哉、
だから嫌い、
自分をじっと見つめるその眼が嫌だった、
だから嫌い、
なのにそのくせ、直哉を手にしたいとも思う。
この胸の内のわからぬ男に云いようの無い懐かしさを感じて
それ故に直哉に対してどうしていいのかわからなくなる。
自分はいつも、いつだって自分のことで精一杯で何も気付かなかった。


「そうか、好きか」


だから大事な質問だとは思わなかった。

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