次に尊が目を覚ました時、まだ船の上だった。
ゆらゆらとしていて、微睡ながら尊がぼんやりと窓を見れば月が見えた。
「起きたか」
「大和・・・」
やまと、と云ってから尊は自分の聲が掠れていることに気付いた、そして尊は自分がどういう状態になったのか漸く思い出した。
「無理に話さなくていい、何処か具合の悪いところは?」
大和に気遣われていることが尊には恥ずかしい。恥ずかしくてたまらない。
尊はゆっくりと首を振った。
「大丈夫・・・少し怠いけど・・・」
「時間はあるのだからゆっくり眠るといい、お腹は空いていないか?」
大和に云われて初めて尊はお腹が空いていると気付いた。
思えば大和と交わったのは昼間だ。朝食を食べてから何も口にしていない。
尊が頷くと大和は予め用意していたオードブルの乗った皿と水を尊に差し出した。
「暖かいものは直ぐ届く、それまではこれを」
つくづく、大和は卒のない男だ。
こうして尊の状態を見極めて、適切に処置する。思えばあの七日間でも大和はずっとそうだった。大和がそんなだから、尊はいつも焦る。そんな大和に追いつきたいと思う。そして大和に頼られる人間になりたいと、思うのだ。
「後悔は・・・」
「え?」
大和は口を噤んだ。後悔はしていないかと尊に訊きたかった。セックスの後に意識を失った尊を清めて、清めている間も尊は起きる気配が無くて、死んで仕舞ったのではないかと柄にも無く焦った。そして明らかに冷静さを欠いていた己を叱咤した。大和は尊が後悔していたのなら、もうどうすればいいのかわからない。それを訊きたかった。けれども尊を見るとそれを訊くことが恐ろしい。
そしてこの峰津院大和にも恐れるものがあるのかと驚きさえ覚えた。
「いや、何でもない・・・食事が来たようだ」
その時、尊に訊かなかったことを大和は後々後悔することになるのだが、その時はどうしても尊に訊けなかった。
訊く勇気が無かった。
大和はその後も紳士然として尊に接し、尊の心配をするばかりで、尊が再び眠って、朝、埠頭で大和は尊を見送った。

「矢張り車で送ろう・・・身体が辛いだろう?」
「大丈夫、平気、歩けるし、痛みも無いから。ゆっくり帰るし、電車でいいよ」
「そうか、尊」
大和は去り際に尊の腕を掴み、手元に尊を引き寄せた。
そしてキス。
尊は大和の行動に目を見開き、顔を真っ赤にして俯き、それから「また」とだけ呟いて、下船した。
多分、今の顔を尊は誰にも見せられない。
どうしていいのかわからない。
尊は耳まで赤くして、慌てて船を降りた。二日ぶりの埠頭に人は疎らだ。
そして駅へ向かって歩き出す。
世界を戻して、大和とこんな関係になるなんて尊には想像もしていなかったことだ。
頭がふわふわとして、地に足が着いている気がしなくて・・・そう有体に云えば尊は浮かれていた。浮かれていたから気付かなかった。まるでそのことに気付かなかったのだ・・・。
―そしてそれは突然訪れる。
尊が電車に乗って、普通の人の中で座りながら目の前をカップルの男女が手を繋ぎながら楽しげに話しているところで急激に尊は現実へと引き戻された。
我に返ったのだ。そして尊はこの現実に慄いた。
( 俺・・・ )
( どうしよう・・・ )
( ・・・セックス、しちゃった・・・ )
大和と。
尊も男で、大和も男だ。浮かれて、ずっと忘れていた。あの場所で尊と大和は二人だけだった。だから忘れていた。
尊はこれが普通では無いことを失念していた。そもそも大和自身が普通では無い。存在も、地位も何もかも尊とは違いすぎるから気付かなかった。
けれども尊も大和も男同士で、男同士のカップルも確かに世の中に居るかもしれない。けれどもそれは自分では無い筈だ。
その筈だった。でも今はどうだろう、尊は当事者になっている。
( ・・・おれ・・・ )
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
こんなの、普通じゃない。
少なくとも尊の知る普通とはかけ離れている。父さんに、母さんになんて云えばいいのか、こんなこと誰にも云える筈が無い。
誰にも云えないことをして仕舞った。だってどうするって云うんだろう、どうしたらいいのか尊にはわからない。
大和と寝たことに後悔は無い。後悔はなかったけれども尊にはそれを受け止めるだけの覚悟が無かった。だって尊はまだ学生で、親に養われていて、自立していない。将来をどうしようかと考えている身で、大和は同じ大学に行っていても違う。大和はジプスの局長で自立していて、生い立ちも何もかも別世界で、将来の展望がはっきりしている。どう考えたって尊とは違ってしっかり地に足が着いている。
住む世界が違いすぎる。
( どうしよう・・・ )
尊は激しく混乱した。今更ながらに。世界が終わる時でもこんなに動揺しなかった。
どうしてしてしまったのか。どうして大和を誘うようなことをしてしまったのか。
深く、考えなかった。知りたいと思った。それでも尊は考えるべきだったのだ。
大和のこと、自分のこと、父や母のこと、人生のこと、もし尊がこんなことをしたら父や母はきっと悲しむんじゃないか、大地達に軽蔑されるんじゃないかという不安が尊を襲った。
そして一番は大和に。大和に申し訳ないと思う。
大和にこんな浅慮で、身体を繋げてしまって、大和は優しいから、構わないと云うだろう。でもそれではあまりにも不実では無いだろうか。尊は大和が好きだ。勿論好きだ。
けれどもそれは大和の好きと同じ好きなのだろうか、知りたいと尊が強請って、身体を繋げて、誰にも云えないようなことをして・・・尊は今更、自分のしでかしたことの大きさに震えた。
震えて、怖くなった。
あらゆることを尊は恐れた。
―だから、大和には会えない。
尊はそれから一週間の休みの後、ジプスのアルバイトに出勤したが、徹底的に大和を避けた。いつかちゃんと向き合わなくてはいけないと頭ではわかっていても、答えを出すのが怖くて、大和を避けた。勿論仕事上、大和を避けることができないこともある。それでも極力当たり障りの無い会話をして、逃げるように用事を見つけては大和を避けた。勿論大和からメールも電話もあった。それさえも尊はおざなりに返して、このままではいけないとわかっているのに、向き合う勇気が無くて、大和を避け続けた。


これに凹んだのは大和だ。
大和は尊を愛している。好きという言葉で片付けられるような感情では最早無い。身の内にある尊への想いは、恋情であり、情欲であり、激しいものになった。だからこそ、尊が大和を明らかに避けていると気付いた時、いっそのこと無理矢理閉じ込めて仕舞おうかとさえ思った。実行されることは無かったが、そう思ったくらい衝撃を受けた。
そして何が駄目だったのか大和は自問する。
温泉は良かった筈だ。船旅も悪くなかった。わざわざ船を呼び戻して、生まれて初めて休暇を取って。初めてのことばかりで大和も多少浮かれていた。あの船で、もう一泊するかと尊を誘って、それに頷いた尊に、柄にも無く大和は冷静さを欠いて仕舞った。
けれども大和はその行為の中で精一杯紳士であろうとしたし、失敗はしたくなかった。いずれはそういうこともいつか出来ればと思っていたので下調べもしていた。こんなに早く尊をこの手に抱くことが出来るとは思っていなかっただけに動揺はあったが、それでも丁寧に、優しく務めた。
尊は女では無い。大和に宛がわれる借り腹の女達とは違う。
尊との交わりは、愛情の伴ったものであった筈だ。
大和が尊を愛しているからこその行為だ。
常ならば女が痛みを感じていようとどうだろうと大和にとってはどうでもいいことであったが、尊との行為に関してだけは痛みでさえできれば少ない様に、尊に負担はかけないように、そう大和は務めたつもりだ。
悪くはなかった筈だ。尊は行為の中で確かに快楽を拾っていたし、意識を失って、起きた尊に嫌がられなかったことに大和は安堵も覚えていた。だからこそ大丈夫だと思っていた。
少しぎくしゃくしても、また以前のような、否、以前より親密になれるのではと大和は思っていた。
けれどもどうだろう。この状況は・・・。
尊は明らかに大和を避けているし、電話も、メールも理由を付けて、伸ばし伸ばし曖昧にして仕舞っている。
大和は正直に、生まれて初めて頭を抱えた。
性急すぎた。事を急ぎすぎた。千載一遇の機会だと思っても自重するべきだった。
思えば尊は、大和の手をあの七日間で取らなかったではないか。だからこそ、大和が尊に付いた。大和の方が尊に折れたのだ。勝者が尊であったので云うまでもなくその結果になったが、それでもそんな尊だから大和は尊に好意を持ったし、唯一肩を並べられる存在だと思っている。尊だからこそ愛しているのだ。
尊は一度こうと決めたら強情だ。その尊が大和を避けている。
最悪の考えだけが大和の頭を巡る。
生まれて十八年、悩みもしなかったことで大和は頭を抱えている。
恋の悩みだ。
尊との行為を急いた大和が悪い。
これだけははっきりしている。大和は事を急ぎすぎたのだ。
尊がジプスにアルバイトに来てくれるだけでもまだマシだろう。
このまま尊が大和の前から去って仕舞ったら大和は自分が何をしでかすかわからなかった。
もしかして良くなかったのか、男として若干凹むが、そんな弱気な考えさえ過る。年相応の悩みではあったが、いかんせん何が問題なのか大和は正確に捉えてはいなかった。その明晰な頭脳を駆使しても当たり前すぎて見逃していた。
尊と大和との間にある障害は唯一、性別であることに。

そしてそれは夏休みを持ち越して、なんと後期の授業になるまで持ち越されることとなる。
尊も大和も周囲の人間ですら予想していなかったことだ。
既に持久戦であった。
「尊・・・」
尊の姿は無い。後期が始まれば尊に会えるかと思ったが、其処に尊の姿は無かった。
大和は溜息を尽きながら、無駄だとしか思えない授業に参加する。そして仕事をこなしながら、尊を想う。
いつでも、本当なら大和はいつでも部下に尊の様子を報告させることが出来る。
一言命を下せば尊を連れてこさせることなど造作も無い。
それだけの力が大和にはある。
けれども、それをする勇気が無かった。
本当なら大和は尊に問い質すべきなのだ。
私を嫌いになったのか?と、大和は問うべきだ。
無駄を好まないのは何より大和自身であるのだから、そうして然るべきだった。
けれども出来なかった。
出来は、しなかった。
なんという弱気だろう。これがあの峰津院大和かと大和は自嘲気味に己をせせら哂った。
今の大和に出来るのは未練がましく、尊が来る筈の教室に座り、待つだけ。
待つだけだ。
恋をしている。焦がれている。
手を伸ばしてこの腕に閉じ込めて、愛していると云いたい。
奪ってでも、全てを賭してでも欲しいとさえ思っている我が身の浅ましさが憎らしい。
これが如何に惨めで、無様であっても、大和は尊への想いを断ち切ることが出来なかった。
来ないのならそれでもいい、それでも一人で待ち続けるだけの覚悟が大和にはあった。
「今日も、待ち人来ず、か・・・」
大和は携帯に着信した業務報告に指示を出しながら、そっと夕陽が射しこむその席を立った。


09:隣に居る筈の影を探しながら。
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