深い眠りの中で、尊はゆらゆらと揺らめいていた。
海に浸かるようなそんな感じ。水の中で尊はずっとゆらゆらと揺れている。
このまま此処に居たら誰にも見つけて貰えないんじゃないかと、そんな不安に駆られるほど尊は夢の中でずっと一人だった。
だから誰かに探してほしい。尊は誰かに見つけてほしかった。覚えていてほしい。このまま尊が消えても忘れないでいて欲しい。いつか淘汰されて無くなってしまっても、忘れないで欲しかった。
もしかしたら尊は自分が世界を戻したのは、忘れないで欲しかったのかもしれないと漠然と思った。
忘れないでほしい、尊が居たこともこの世界があったことも失われた多くの命があったことも、そこで生きた人が居たことを、誰かが誰かの為に泣いたり、笑ったり、怒ったり、幸せだったり、酷いことが沢山あってもそこにある僅かな優しさや切なさが降り積もって残った世界を忘れないで欲しかった。尊は覚えていたかった。忘れない、覚えている、いつまでも、覚えていてほしい。
そして尊は重たい腕をどうにか動かして手を伸ばす。水の中で。多分このまま尊はこの海に沈んでしまう。沈んで消えて仕舞うだろう。助けて欲しいわけでは無い。
ただ忘れないで欲しくて尊は手を伸ばした。それは子供の頃見た風景に似ている。無心で太陽や月に手を伸ばした、そんな憧憬。
ふと、聲がした。
「尊」とその聲は云う。
優しくて、少し冷たくて、凛とした、聲。
そして尊は眼を覚ました。
「大和・・・」

夢で聴こえた聲は大和だった。
もそり、と尊は起き上がって、頭を掻く。
大和の聲だ。あれ程聴きたかった大和の聲。尊だけが思い出したと思っていた。それが切なくて、尊は何度も大和の聲を頭の中で再生した。もうその聲を忘れそうになった頃、大和は再び尊の前に現れたのだ。
「起きよ・・・」
時間は十時を過ぎている。
寝すぎて仕舞ったらしい。大和はどうしたのだろうと尊がリビングに顔を出せば、テーブルの上にメモが置かれていた。
「・・・仕事、か」
大和らしい綺麗な文字で大阪本局で会議だとメモには書いてある。大和は忙しい。チェックアウトの時間は気にしなくていいと書かれていた。食事は指示しなくても尊が起きたことを察せられたのか、大和があらかじめ頼んでいたのか、普段食べる機会がなさそうなくらい豪勢なものが運ばれてきた。尊はそれをもそもそ食べながら、昨夜のことを考える。
あれは夢では無かった。
どう考えても夢じゃない。
大和はまた尊にキスをした。
唐突なキス。
尊は今度こそ大和は覚えているのだと確信した。
忘れているのだと思っていた。だからこそ訊かなかった。
でも大和は覚えていた。
キスしたことを。最後にあの別れの際に尊に口付けたことを大和はきっと覚えている。
「なんで大和・・・」
何故か、が尊にはわからない。
それが友情なのか或いは別の物なのか、尊には上手く想像できなかった。
大和が何故尊にキスをしたのか、しかもあんな一瞬の、上手く表現できないくらい、一瞬の、透明なそれ。
わからない。何故大和がそんなことをしたのか尊には理解できない。
けれどもそれが嫌では無いのは確かなのだ。
嫌では無かった。
尊はその日ぼんやりしながら大学に登校した。

「尊、帰らなくていいのか?」
聲をかけてきたのは迫だ。
時間を見れば夜の八時を廻っていて、尊は夕飯も食べ損ねている。
此処は国会議事堂の地下、ジプス東京支局の局長室だ。
「うん、もうちょっと整理してから」
「しかし局長は遅くなるし、今日は戻ってくるか・・・」
「いいんだ、家には云ってきたし」
大学の講義が終わってから尊は一度家に帰宅している。母にバイトの旨と遅くなることは告げているので問題は無かった。
大学生になれば忙しいのね、と寂しそうに云う母に尊は詫びながら帰りに買ったケーキを差し出したのだ。
「そうか、しかし食事はした方がいい、食堂へ行こう」
迫に誘われるままに、尊は食堂へ向かう。時間帯を外している所為か人は少ない。けれども業務上二十四時間待機が必要な仕事であるのでジプスは内部の設備が充実していた。食堂も夜十二時過ぎまでは開いている。中の施設に入居している人間も居るので当然の処置であったが、改めてジプスは巨大な組織なのだと尊は思う。
「真琴さん、カレー好きだよね」
「此処のは美味しいんだ」
迫は大和が突然連れてきたのにもかかわらず尊に馴染んだ人間の一人だ。勿論元々あの七日間を一緒に過ごしたのだから当然であったが、自然に名前も苗字では無く、下の名前で呼び合っている。その方がしっくりくるからだ。それはジプスに居るかつての仲間達も同じだった。覚えていなくても皆どこか懐かしさや親しさをもって尊を呼ぶ。尊にはそれが嬉しかった。
「今日は夜勤なの?」
「いや、交代時間までの待機だ。尊はどうする?」
「うん、書類整理まだ残ってるしちょっと考えたいこともあるから、もう少し居ようかな」
「そうか、では局長が戻ったらこの報告書を渡しておいてくれ」
わかった、と尊は頷く。大和への報告書はメールで転送してもいい筈だ。でも迫はこれを尊に寄越した。
わざわざ尊の為に大和への用事を作ってくれたのだ。
「真琴さん、ありがと、」
「気にするな、それより尊、遅くなるようなら宿舎に泊まるといい、部屋はわかるな?」
「うん、わかってる、有難う真琴さん」
おやすみなさい、と告げてから尊は真琴を見送り局長室に戻った。
気付けばもう九時過ぎだ。大和はもう大阪を出ている筈だから直帰しない限りは東京支局に戻るだろう。
何度か尊は大和にメールを送ろうか迷ったが結局送れないでいる。尊は書類を片付けながら大和を待った。
大和に来て欲しいのか、来て欲しく無いのか・・・曖昧なまま、時間は過ぎた。

「来てたのか・・・」
「うん、お帰り、大和」
十一時前に大和が東京支局へ戻った。
誰もいないと思っていたのだろう。扉を開けた大和は尊の姿を認めて酷く驚いた顔を見せている。
コートは流石にもう夏にもなろうかという季節だ。着ていなかったが、大和のスーツには沢山の階級章が着けられていた。場合に応じてジプスは自衛隊などの階級の行使ができると聴いたのもつい最近のことだ。
大和はジャケットを脱いでハンガーにかけた。それから少しネクタイを緩めてパソコンを起動する。
「会議、時間かかったの」
「ああ、少し面倒な案件が多かった」
「真琴さんから報告書預かったよ、其処に置いてるから」
「済まない」
「・・・泊まってくるか直帰するのかと思ってた」
「いや、片付けたい書類があったのでな、戻った」
「明日、大学に出る為に?」
「誰かが何か尊に云ったのか?」
「・・・違うよ、誰も何も云っていない。でも大和、大学に来る為に無理して仕事してるだろ」
大和の働きぶりを見ていればわかる。大和が尊には云うなと厳命しているのであろう、誰も尊には何も云わないし、尊の霊力を認めた人や大和直属の人たちは皆親切で優しかった。それでも尊にはわかった。
大和は尊との時間を作る為にわざわざ行く必要の無い大学へ来て、仕事をしている。仕事場が変わっただけだと大和は云うけれどそれは嘘だ。事実大和に報告する為に始終大学へ誰かしらが来ているし、大和が大学へ通う為にSPが常に配置されている。そして大和は遅くまで残務処理をこなすのだ。
市井を知る為だと云った。尊もずっとそうなのだと思っていた。ただの大和の興味だろうと思っていた。
けれども多分、違う。大和があのキスを覚えているとしたなら大和は尊の為に此処に居る。
「船を・・・」
「船?」
「先日云っていただろう、尊。ヨーロッパにある船を呼び戻したからそれで休暇は熱海へ行こう」
「へ?」
突然のことに尊は眼を丸くした。大和は書類を纏めながら言葉を続ける。
「行きたいと云っていただろう、温泉に」
「ヨーロッパの船って・・・」
「峰津院の所有する船の一つがあったのでな。一番大きいのを用意した」
「熱海に・・・?」
「船旅がしたいと云っていただろう」
「うん・・・」
大和はいい奴だ。本当に。尊が無邪気に云った言葉を簡単に実行してしまう。
友達の付き合いとかそういう普通の一般的なことなんて大和はちっとも知らなくて、それでも大和は精一杯の優しさや好意を尊にみせる。なのに時折何か言いたげに大和は尊を見るのだ。尊はそれに気付かない振りをすればいい。そう思う。訊いて仕舞えば、それが何なのか尊にはわからなくてもきっと時計の針は進んでしまう。優しい居心地の良いこの空気がなくなって仕舞うかもしれない。
けれども、わからない、大和がわからないけれどもそんな大和を知りたいと尊は思う。そしてその疑問を大和に問うて仕舞うのは尊の性分だった。
背後で珈琲を淹れる大和に尊は問う。

「何でキスしたの?」
大和はことりと音を立てて珈琲カップをチェストの上にゆっくりと置いた。
「起きて、いたのか・・・」
「あの時もした」
「ポラリスに時間を戻させた時か」
「俺、大和になんでって訊こうとしたけど間に合わなかった」
「間に合わなくてよかったんだ」
「どうして?」
どうして、と問う尊に大和は笑みを浮かべた。
大和はこうした尊の素直さを好いている。
きっと大和が尊に抱いているような感情など尊は考えたことも無いのだろう。
だから優しいままでいようと思った。けれども我慢できなかった。叶うのなら尊の手を掴んで一緒に連れて行きたかったのは大和だ。
忘れていたのなら忘れているままでよかった。そうすればこんなに幸せで美しい時間など大和は知らずに過ごせた。
けれども思い出して仕舞った。大和の名を尊が検索して、逆探知したリストから尊の名前を発見した時に大和は全てを思い出した。
焦がれた。尊と云う存在に大和はあの七日間ずっと焦がれていた。この手を取って欲しいとずっと願っていた。けれども尊は大和の手を取らなかった。唯一無二の存在を大和は見つけたと思っていたのに、所詮人は一人なのだと思い知った。なのに尊は来た。敗北した無様な大和の手を取り、世界を戻したいのだと云った。ならばそれを叶えてやるのが大和だ。大和しかできない。尊の望みを叶え世界を戻し、記憶が溶けても、尊の望みなら大和はそれを受け入れるだけだ。
忘れたと思っていた。だからこそ大和はこの腐った世界で生きていけたのだ。でも思い出して仕舞った。尊と出会ったこと尊に抱いた夢や想いのことを全て。思い出してからはずっと尊に会いたくて仕方なかった。けれども大和は待った。尊の生活が落ち着くまで。尊がどうするのかを見極める為に待った。そして時期を見て尊の隣に立った。
その頃にはこの想いの正体が大和にもわかっていた。この焦がれるような感情が普通の感情で無いことも、それが恋情という種類のものであることも理解した。大和が今まで誰にも抱かなかった感情だ。
尊にだけ、大和はそれを覚える。
尊だけが大和には大切だった。
だからこそ、優しいふりをした。尊に嫌われないように、尊が安心して生きていけるように、その為なら大和は何でもできる。その筈だった。大学に通うことは勿論、本家にはいい顔はされない。大和はそれを押してでも峰津院家当主としての力を行使して尊の傍に立った。尊に想いを伝えるつもりも、尊にキスをするつもりもなかった。
でも駄目だった。眠りにつく尊を見ていると触れたくてたまらない。
幸せに眠る尊を見ていると、少なくともこの世界を戻して良かったのだと大和は思える。
今、大和の価値基準の全ては尊だ。
それが全てな訳では無い。公私は弁えているつもりだ。けれども大和個人としての基準は尊だった。
尊が居なければ大和は此処にはいない。大和は死ぬつもりだった。
或いは尊に敗れて死んだあと仮に時間を戻されても、今の大和のような行動は決してしなかった筈だ。
尊が大和の全てを変えてしまった。
尊だけが大和の心の中に入ってきた。
大和は尊に向き直った。
そして尊に近付く。
尊は目を丸くして大きな青みがかった綺麗な眼を大和に向ける。綺麗な尊の眼、それを想うと大和は胸が熱くなる。
そっと大和は手袋を外し、尊の頬に触れ、それから、今度こそ本当に口付けた。

「・・・っ」
驚いて尊が身を捩る。
けれども大和は尊の頬を包む手に力を入れてそれを許さない。
尊が息をしようとして口を開いたところですかさず舌を入れた。
ぬるん、とした大和の舌が尊の咥内を舐める。
それに尊はぞわぞわした感覚を覚えて、それから今置かれている状況に目を白黒させた。
どれだけ尊が身を捩っても大和は逃れることを許さない。
ぞわぞわとした感覚はそのうちぞくぞくとしてきて膝が震えて、立っていられなくなって必死に尊は足を踏ん張った。
大和にゆっくりと舌で口の中を撫ぞられて、歯の裏まで余すところなく舐められた後には尊の息は絶え絶えでもう立っていられない。
「っ・・・ん、っ」
最後に大和は下唇を名残惜しげに吸ってから尊を開放した。
はあはあ、と尊はよろめきながら息を整え、口端から伝う唾液を慌てて拭く。
何が起こっているのかわからない。
どうして、と尊が大和を見れば、大和は観念したかのように目を閉じて、それから困ったように尊に云った。
「私が君に抱いているのはこういう感情だ」
「・・・・・・」
「だから口付けた」
「・・・・・・大和・・・」
「今日はもう遅い、帰った方がいいな、車を用意させる」
諭されるように尊は大和に背中を押され、促されるままに帰宅の路へ着く。
大和は議事堂の玄関まで車を呼ぶと、最後に云った。
「それでもいいなら、船に来たまえ」
大和に渡されたのは日付と場所を記した紙だ。
ふらふらする頭で尊は大和を見る。大和は尊を車に押し込むと何も云う隙を与えずに玄関に戻って仕舞った。
大和の顔を尊は見ようとする。
けれども暗がりで陰になって大和の顔は見えなかった。
尊は車の座席にうずくまるように顔を落とす。ぎゅと力を込めて膝を抱えた。
尊には大和が何を考えているのかわからない。・・・でもわかって仕舞った。
わからないのに、わかってしまった。
言葉よりも遥かに雄弁な態度で、仕草で大和を、大和の想いを尊は知って仕舞った。
わからない、どうすればいいのか尊にはちっともわからない。
けれども去り際に大和の顔が見えなくてよかったとも尊は思った。


06:だって今、顔なんかとてもあげれるわけが無い。
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