記憶はある。
地下鉄のホームを駆け上がり、地上に出て、当たり前の光景を前にしたとき、尊の記憶はフラッシュバックするように鮮明になってきた。
そうだ、ポラリスを倒した。世界を変えた。
悪魔が居た。世界は大きく変わって仕舞って沢山の人が死んだ。
それだけは覚えている。大地が居た。維緒が居た。けれども他に多くの人が居た気がするのに誰と居たのかそこだけが霞みがかったように思い出せない。大地や維緒を見ると二人とも覚えてはいないようだった。ただ皆少し大人になったような気もする。
尊はゆっくりと息を吐いた。そして思う。
世界は戻った。失うかもしれないと思っていただけに拍子抜けした。
当たり前にファーストフードで食事をして、当たり前に携帯が使えて物が溢れていて、沢山の人が居る世界だ。
雑多で、多くの人が行き来するごく当たり前の風景。
尊はその平和に少し怖くなって、五時過ぎまで大地達と一緒に居た。いつ災害が起きてもいいように、いつセプテントリオンが来てもいいように。けれども、ニカイアというサイトはいくら検索しても出てこない。大地や維緒も存在すら知らず、そしていつまで経っても世界は普通の日常だった。
だから夜に家に帰った時、尊は不覚にも泣いて仕舞った。
なんでも無い顔で食事の支度をする母や、テレビで放送される野球の試合を新聞を広げソファに座って観る父を見ると泣いて仕舞った。
あの日、あの時、正確にはこの後すぐに、此処は崩壊し、燃えた。
生きていたのか死んでいたのかさえ、わからない、父や母がこの崩壊し火に呑まれる場所から逃げ遂せたのか、逃げれたのなら、大丈夫だったのか、悪魔に襲われなかったか、食糧や医薬品も少なくなって、辛い思いをしたんじゃないかとか、それを想うと涙がでた。
溢れるように次から次へと涙が出て、嗚咽が込み上げて、父や母が驚いたようにこちらを見た。
どうした?と問うてきた。
けれどもそれに答えることも出来ずに尊は泣いた。
母はその日、夕飯に尊の好物を沢山出してくれた。
父は、受験に悩んでいるのかと妙な気を使って、好きなことをすればいいと云ってくれた。
そういうほんの些細なもの、そういう優しいささやかな幸せをこれから先ずっと大事にしていこうと尊は思う。家族も友達も今在るこの世界を、ずっと大事にして生きていく。そういう優しさや少しの勇気や最後まで諦めなかった強さが、今この世界の未来を勝ち取ったのだ。だからこそその想いを忘れてはいけない。

そしてあれから一月、尊は毎日、毎朝、起きる度に、記憶を確認する。
小鳩尊、それが自分の名前だ。
普通に学校に行って、普通に生活をして大地達も全然覚えてなくてでも前よりしっかりしていて、皆将来や生き方に目標や決意を持っていて、そして毎日夢を見る。セプテントリオンと戦ったことや色んな選択をしたこと、それは少しづつ鮮明になり、最初にフラッシュバックした時よりもはっきりと詳細を思い出してくる。世界が崩壊して戦い、その末にポラリスに謁見し、ついに時間を戻すことに尊達は成功した。
そして尊は存在が消えることも無く、今此処に居る。
徐々に曖昧だった尊の記憶がクリアになる。そうだ、彼女は真琴さん。しっかり者で少しドジで、優しい大人の女性、ジプスだった。最初に尊達を助けてくれたのは彼女だ。譲はどうしているだろうか、今度こそ彼女と幸せになっただろうか、啓太はボクシング、純呉は板前、史は研究三昧だろうか、乙女は立派な医者としてきっと仕事が忙しくて、緋那子はダンスを、亜衣梨は何かに怒っていないだろうか、ロナウドは刑事に復帰しただろうか・・・。
そしてもう一人いた筈だ。鮮烈な印象、一度見たら忘れられない程の圧倒的な存在感。そうだ、彼は年下で、ジプスの局長で、何でも出来て、でも一般人の生き方なんて殆ど知らなくて、世間知らずなのか、天然なのかちょっとわからないようなそんな可笑しさがあって、真面目で、でも胸の内に激情を秘めた・・・。

「大和・・・」
そうだ、何故忘れていたんだろう。
峰津院大和だ。
峰津院大和、はっきりと思い出した。
今度こそ尊はこの一月の間朧に霞んでいた記憶をはっきりと全部思い出せた。
全部だ。始まりから終わりまで全部。ニカイアというサイトに登録しセプテントリオンを倒し、仲間と出会い、ポラリスを倒したこと、そして世界を戻したこと。漠然とは覚えていたが尊の記憶は、はっきりとしなかった。あの時間を誰と過ごしたのか、どうやって、何処で七日間を凌いだのか。ゆっくりとその記憶を夜毎に夢で辿るうちに一月かかって仕舞ったが、そういった細かなことも全て今思い出した。
あの日、あの場所で最後に大和が尊に口付けたことも全部。
「大和・・・どうしてるかな・・・」
大和はきっと今もジプスに居る筈だ。
尊はベッドから身体を起こし、肌寒くなってきた朝にエアコンをオンにしようとしたが、この朝の透明な寒さを味わいたくて結局、一瞬躊躇してからリモコンを机に置き代わりにパソコンの電源を入れた。
ごはんよ、と呼びかける母の声に返事をしながら、尊はおざなりに着替える。
今日は日曜だったが、午後から予備校があった。
大地と昼前に約束もしていることから今日は忙しい。忙しいが以前よりずっと充実した生活を送っていると尊は実感している。
階下のリビングへ顔を出せばダイニングテーブルには焼き立てのフレンチトーストにサラダ、スープとヨーグルトが皿に盛られている。尊が席に着けば母が暖かいミルクティを運んでくれた。当たり前の生活、当たり前の風景。けれども、尊はそれがどれ程大切なものなのかを知っている。母に有難うと告げそして、今日の予定を伝えながら、尊は朝食を終えた。
それから部屋に戻って直ぐ尊は待機状態になっていたパソコンを操作する。
迷うことなくブラウザをクリックして検索をかけた。
「ジプス・・・ではヒットしないか・・・」
政府の極秘組織だと云っていたから当然予想はしていたが検索してもヒットはゼロだった。
もう一度気を取り直して尊は検索をかける。
『峰津院大和』
尊が軽快にキーボードを操作して打ち出した名前は大和だ。
「峰津院大和、」
思わず口に出して尊はもう一度その名を云う。
勿論、此処は尊の家の尊の自室であり誰も答える筈は無く、検索しても矢張り、ヒット数ゼロ。
―該当無し。
念の為、峰津院で検索しても駄目だった。日本を影から支える一族だと聴いていたのでこれも仕方が無い。インターネットで検索にヒットしなかったからと云って大和がいなくなっているわけでも無い。まるで自分自身にそう言い訳するかのように尊は自身を慰めた。慰める。そう、尊は己を慰めたのだ。大和が覚えていなくても自分だけが覚えていることに尊は僅かながらにショックを受けた。
覚えていたのなら、大和のあの性格を考えるときっと一度くらい尊の元へ顔を出したのではないかと思う。
けれども大和からそんな音沙汰は一度も無く。勿論大和は局長という立場である以上多忙であるのだろうし、今も難しい会議やらなにやらで大変なのも想像が出来た。でも覚えていたらそれでも大和は尊に連絡を寄越しただろう。だから、矢張り結論から云えば覚えていないのだ。大和も大地達同様覚えてはいない。つまりもう既に尊達は別々の道を歩んでいる。
元々大和のような人間と尊が出会う方がおかしいのだ。だから当然だ。出会う筈のなかった人間があの異常な状況下で極限の状態の中で出会った。そして共に戦った。でも今は違う。世界は戻り、何もなかったことになっている。大地や維緒とは幼馴染であったり同じ高校であるのだから縁が切れたわけでは無いが、他の仲間達は覚えていなければ尊はただの他人である。懐かしさは覚えても、以前のようにはいかない。だから、仕方が無いことなのだ。
尊でさえやっと今朝全てを思い出したのだから。そしてこの一月大地達との会話で記憶が戻っているか尊は何度も確認している。けれども大地も維緒も覚えてはいなかった。だから思い出す筈が無い。
何故、尊だけが思い出したのか、あの場で決断したのが最終的に尊だった為なのか、それともまたいつかあの災厄が訪れるのか・・・忘れていられるならいっそ全てを忘れていたかった。
思い出したくなかった。辛いこと、苦しいこと、泣きたくなって、膝が笑って立てなくなりそうなことがあの一週間で何度も何度もあった。けれども尊達は立ち上がり続けた。そして未来を勝ち取った。
だからそれでいい。皆新しい未来へ歩み出す。自分が覚えていることが少し苦しいけれどそれだって大切な思い出だ。いつかこの辛い尊の胸を締め付けるような感覚も消えるだろう。だから皆忘れたままでいい。
「大和・・・なんでキスなんか・・・」
理由は訊けなかった。訊く前に彼は過去に戻って仕舞った。
あの時の衝撃が尊に忘れるなと云う。まるでそう、大和は尊に忘れるなと想いをこめて口付けたようだった。
過去に戻ればもう大和と尊はジプスという極秘組織のトップとただの民間人の関係になる。
何でも無い関係。何もなかった関係。
あの七日間、大和の傲慢さに尊が憤ったことも何度もあった。
しかしそれ以上に大和は尊を惹きつけた。
引力のように惹かれた。けれども尊は大和の手を取らず、世界を戻した。大和もそれに最終的に頷いて皆で決めた結果の筈だ。
だからこれでいい。後悔も無い。それぞれの人生を今度こそ間違わないようにしっかり生きていければいい。
「俺は思い出したくなんか無かったよ・・・」
それでも、忘れていたかった。
思い出したら辛いばかりで、何故という疑問だけが尊に残る。
過ぎた過去のこと、或いは別の未来のこと、一瞬でもその手を取れば良かったと思って仕舞うような苦味だけが尊に残った。
尊はそっと目を閉じる。彼の声を思い出してみようとして、目を閉じる。
リフレインする大和の聲、「尊」と呼ぶその心地良い聲を思い出しながら、尊はそっとその苦い気持ちを噛み締めた。


02:ほろ苦い
記憶の残滓
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