撫子を取り巻く状況が変わったのは一瞬のことだった。 いつものように撫子はぼんやりとベッドに座っている。白い何も無い部屋で一歩も出ることも無いまま。 恭しく世話はされたが、撫子に自由は無い。 世話をする人や医師達は撫子に優しかったが、自由を与えてはくれなかった。 彼等が忠実なのは大和へだ。世界の王である大和に彼等は仕えている。 大和が撫子を閉じ込めると云うのならそうするしか無いのだ。 撫子はもう一度寝ようかと眼を閉じた。 この頃は眠くて、起きているのが辛い。 大和はそんな撫子を見る度に苦しそうな顔をしたが、何も云わなかった。 けれども撫子が目を閉じたのは一瞬のことだった。 不意に外が騒がしくなって異変を感じたのだ。 大和だろうか、とも思うが此処暫くは忙しいらしく夜も遅かった。早く仕事が片付いたのだろうかと撫子は訝しむ。 それにしてもまだ昼過ぎの筈だ。撫子はその異変に眉を顰めた。顰めた瞬間、轟音がする。 あ、と思った時に扉が開いた。 「撫子!出るぞ!」 「大地・・・・・・」 いつぶりだろうか、目の前に居るのは間違いなく志島大地だ。 以前と変わりなく、少し手がまだ不自由そうであったが、間違いなく大地だった。 見れば維緒も居る。足を痛めたらしく未だ包帯がされていたが撫子の無事を確認して維緒の眼には涙が浮かんでいた。 「早くしろ!時間が無い!」 「真琴さん・・・!」 迫だ。久しぶりに会う彼女は彼女のままだった。細い身体に力を漲らせて、迫は叫んだ。 撫子の目の前で撫子を阻んだ幾重もの結界が崩れていく。 大地達をあの病室から出し、携帯を返したのは迫だったのだ。そして迫の手引きで大地達は撫子を救いに来た。 この騒ぎでは時間が無いのも頷ける。直ぐ様、鎮圧部隊が投入されるのは目に見えている。 「お前の携帯!ほらっ!」 大地から投げられたのは撫子の携帯だ。受け取って即座にプログラムを起動させる。以前と変わらぬ仲魔が召喚され撫子は安堵した。 「撫子くん早く!」 維緒に急かされ撫子は一瞬部屋を振り返る。迷っている暇は無い。 今しか機会は無いのはわかっている。 それでも撫子は振り返った。 そして戻らない撫子の部屋に立つ大和を思い描いた。 「撫子!」 大地に引かれるままに撫子は大和の手を離れた。 * 大和の怒りは最もだった。 「申し開きは?」 一瞬のことだった。まさか迫がそんな荒業をやってのけるとは大和の想像を超えていたことだった。 大地達をよく見舞っていたことからも迫に思うところはあったのだろうが、完全に大和の裏をかかれた。 この処の各地の小競り合いは戦争にまで拡大している。実力主義であるのだから当然ではあったがジプスが頂点として君臨する為に大和は力の行使を求められた。より多くを完膚なきまでに叩き潰さなければならない。 その忙しさもあってジプス本部は手薄だった。以前から菅野には指摘されていたことであったがジプスは一度内部へのパスを手に入れると比較的自由が効く。これはセキュリティを見直さなければならないかと大和は自身を叱咤した。 目の前の男は撫子のフロアの警備主任に置いた男だ。 優秀な男であったが、常に最前線で戦っていた迫や大地や維緒と比べるのは哀れである。今も死を覚悟して大和の前に立っているに違いなかった。 「至急隊を編成して総力をあげてお探ししております」 申し訳ありませんと地に頭を擦りつける勢いで謝る男に大和は苛立ちを隠しもせず舌打ちした。 改めて監視カメラの映像を大和は確認する。 画面の中で爆発が起こり、一瞬映像が乱れた。煙の中立ち尽くす撫子に誰かが声をかけたようだった。 撫子は驚いた顔で大地達と対面した。迫が持ってきたのであろう携帯電話を受け取り悪魔をすかさず召喚する。 その一連の撫子の仕草にはぞくりとするものがあった。 これだ。大和の求めて止まない美しい撫子が其処に居る。あの戦いの中で揺れることが無かった男、美しく洗練された仕草の優しい撫子、その撫子が戦いの意思を示す様が大和を魅了した。 急かされて手を引かれて撫子は部屋を出る。 その時、一瞬、本当に一瞬だけ、撫子は部屋を振り返った。 それを確認して大和の手が止まる。 撫子は振り返った。大和の姿を探すように、振り返った。 噫、と大和は想う。 「あれは振り返ったか・・・・・・」 撫子は振り返った。大和への未練のように一瞬だけ振り返った。 怒りはある。撫子を奪われたことの怒りがある。沸騰しそうなほどに峰津院大和の腸は煮えくり返っている。 けれども怒りに震えるものの、大和は何処かほっとしていた。 「局長?」 「捨て置け、隊を呼び戻せ」 「しかし、撫子様が、」 撫子は振り返った。 大和は撫子を愛している。 彼を閉じ込めるのは間違いだと思いながらも大和は撫子を閉じ込め無理を強いた。 今の撫子はどうだろう。自由を手にした撫子は美しい。大和の愛している撫子はこんなにも眩しい。 振り返ったのは撫子の優しさだ。 この愛は間違っているのだと大和は知っている。 だからこそ迫は死を覚悟しても逃がしたのだ。 このままだと恐らく自分も撫子も何処にも辿り着けない。 だからこそ逃げて欲しいとも思っていた。心の隅で逃げて欲しいとも思っていた。 自分から撫子を手放すことが大和には出来ない。それだけはどうしても出来ない。物理的に撫子を閉じ込めたのだから撫子が大和から逃げられる筈も無かった。それをわかっていて逃げて欲しいとも思っていた。 「あれが出て行ったのだ」 撫子が二度と自分の前に来なければいいと思う。 再び目にすれば大和は必ずまた撫子を閉じ込めるだろう。 ならば此処で自由にしてやるべきだ。 撫子への大和の想いは押し付けにしか過ぎない。 大地達を取り返した今、撫子にとって大和の価値は無い。撫子にとって大和は恨みこそすれ必要なものには成り得ない。 大和は常に撫子に「好きか」と問うた。問う度に、撫子が「好きだ」と答える度に大和は満たされながらも傷ついた。 撫子は大和を愛してはいない。 大和がどれほど撫子を愛してもそれは届かない。 逃げたのなら、逃がしてやるべきだ。 もう二度と大和の手に落ちてこないように祈りながら大和は手を離すべきなのだ。 「構わん、捨て置け」 愛しているのなら手を離してやるべきなのだ。 どれほど求めてもどれほど手にしても大和の欲しいものは手に入らない。 全てを手にした。世界の頂点に立ち、撫子を奪い、全てを手にした気でいた。 でもそれは嘘だ。 大和は一番欲しいものを得られない。 撫子に愛していると告げることすら出来ない。 そんな資格は無いと己の在り様が間違っていると知っていたからこそ出来なかった。 せめてそのぐらいの矜持は在りたい。 今なら手放すことの方が愛なのだと、そう思えた。 「迫隊長は・・・」 「あれも律儀な女だ、戻るだろう、処分は不要だ、通常任務に戻せ」 狂おしいほど愛している。撫子を大和は愛している。 共に行かなければ撫子を奪った者たちを殺せるほど大和は撫子を愛していた。 けれども、それでは駄目だ。撫子を傍に置きたい。叶うのならずっと共に在りたい。 できるのなら幸せにしてやりたい。 それは夢にしかすぎず、撫子は大和の手を離れた。 それでいいのだと今なら想う。撫子をこの手で幸せにすることは叶わなかったが彼は大和の手を離れていつか幸せになるだろう。せめてそう思いたい。歪んでいると、間違っているとわかっているからこそ、大和はそう願わずにはおれなかった。 08:だから 君の手を離す |
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