撫子の食欲が極端に落ちていると大和が報告を受けたのは昼過ぎのことだった。
大和は舌打ちをして提出された詳細なデータを比較した。
「確かに、酷いな」
「このままではお身体に障ります」
「細くなったとは思ったが、食べているのか?」
「喉に通り易いものはどうにか口にされるようですが、肉類などの一切は手を付けられません」
「メンタルも落ちている、何故もっと早くに報告しなかった」
「申し訳ありません、設定値が出たのが・・・・・・」
「言い訳は不要だ、下がれ」
大和は頭を下げたまま退出した医療班の男を確認すると、どうするべきか少し思案してから、室内に置かれた電話の受話器をあげた。
「私だ、あれはどうしている?映像を寄越せ」
指示通り、即座に送られた映像を確認し、大和は席を立った。

ぼう、としていた。
撫子はぼんやりベッドに腰掛けている。
朝から慌てたように医師がやってきて撫子に点滴を打った。
その所為で頭がぼんやりする。
点滴が終わったのか外されてトイレに立とうとしたが上手く立てずに撫子はベッドに座るに留まった。
撫子は弱っていた。
弱っているというのは適切では無い。どうでもよくなったのだ。
大和を憎むことも、自分を恨むことも、失ったもののことも、何もかも全てが膜一枚隔てた向こう側で起こった事のように感じる。
それが危険な兆候だと撫子はわかっていた。わかっていたがそれも最早どうでもいい。
このまま壊れて逝くのがいいのだろうとさえ思っていた。
けれどもそれを許さない男が居る。
撫子が狂うことも壊れることも、死ぬことも許さない男がいる。
大和は急いで来たのか珍しく感情を露わにして撫子の前に立った。
撫子の居るフロアは何重にも結界とセキュリティが張り巡らされた場所だ。
撫子を監禁する為のこの部屋へ至るには幾つもの強固な扉を開けなければならなかった。
その扉をいとも簡単に開けられる男が怒りを潜ませて撫子の前に居る。
そんな大和にぽつりと撫子が言葉を漏らした。
「何が許せないのかと問われれば、全てとしか云い様がないのだけど」
「知っている」
「君は知らない、俺が許せないのはすべてなんだ」
それは撫子自身も含めた全てだ。撫子が大和に抱いた恐怖も好意も全てだ。大和が撫子の胸の内を知る筈も無いし、撫子は永遠に大和に胸の内を明かすつもりも無かった。撫子の恋は既に始まる前に終わっている。撫子は大和のそれを愛だとは知らない。支配だと思っている。だからこそこうなってしまった今語るのは無意味だと思っている。
「具合が悪そうだな、必要なものはあるか?」
いつも大和が撫子に問う必要なもの。
撫子は首を振った。必要なものなどありはしない。撫子は大和に望まない。
何一つ望みはしない。望みがあるとするなら死だ。自由と云う死だけが欲しい。
撫子は自嘲気味に微笑んで、君には無理なことだ、と答えた。
「云ってみろ、死以外なら叶えてやる」
「それじゃあ」
撫子は笑みを浮かべた。どうせ取り戻せないものなのだから、欲しいものを云えと大和が云うのだから、答えた。
「返してよ、大地と維緒を」
出来るものならやってみろ、とでも云うかのように撫子は大和を見た。
大和は撫子を見て、笑みを浮かべる。
予想していた答えだ。
そして撫子の欲しいものを大和は持っている。
「私に全て捧げろ」
「これ以上何を捧げるっていうんだ、全部奪っただろう」
疲れた様子の撫子に大和は携帯に転送した映像を再生した。
音声は無い。
映像は病室だった。
撫子は先ほどの皮肉めいた笑みを凍らせて画面を食い入るように見つめている。

画面に映っていたのは大地だった。
白い部屋だ。此処と同じような白い部屋。
病室だ。カーテンで仕切られた部屋を上から見ている構図になる。
少し遠い映像だったが、一目でわかった。
あれは大地だ。撫子が幼馴染を見間違う筈が無い。
手を少し動かし辛そうにしている。深手を負ったのだから無理も無い。
けれども大地は確かに動いていた。この映像が偽物で無いのなら、生きていた。
そしてその大地の傍らにもう一人の姿がある。少し小柄な少女だ。
「大地・・・維緒・・・」
嘘だ。こんなことある筈が無い。
悪い冗談だ。大和はあの時殺した筈だ。
首を刎ねると云っていたでは無いか、あの血溜りの中、助かる筈が無い。
助かる筈が無いのだ。
二ヶ月以上も経って、画面の中の大地と維緒はまだ怪我を引き摺っているようだった。
それぞれが不自由そうに、互いの傷を労わりながら、談笑している。
局員らしき人間が画面に現れて、何かを処方しているようだった。
その後ろから現れた人物に撫子は更に目を瞠った。
「真琴さん・・・・・・」
迫真琴だ。見舞いに訪れたらしい彼女の手には少しばかりの日用品らしきものがあった。
大地と維緒はそれを受け取り礼を述べているように見える。
これはいつの映像なのか、いつの出来事なのか、遠い過去の出来事なのか、或いは何かの幻なのか、信じられない面持ちで撫子が大和を見つめると大和は「返してやる」と云った。
「一時間前の映像だ。君が望むのなら、彼等を返してやる。自由にしてやることも私には可能だ」
「死んだのだと・・・」
「殺したとは一言も云っていない」
そうだ、思えば大和は大地達のことを撫子が追及するときに、殺したとは云わなかった。いつもクズだのなんだのと云って撫子の怒りを煽った。殺して、いなかったのだ。
大和は大地も維緒も殺さなかった。殺すほどの怒りはあっても殺さなかった。
踏みとどまったのは何故なのか、大和は未だに自問するところであったが、結果的に大和は踏みとどまったのだ。
撫子の大切なものを壊すことを大和は踏みとどまった。
それに気付いた時、撫子は泣いた。
溢れるように次から次へ涙が零れる。
「生きていた、生きてた・・・、いきて・・・っ」
迫が居た。彼女が大地達の近くに居るのなら、大丈夫だろう。今大地達は撫子と同じように監禁されているようだ。勿論怪我も酷かったのだから監禁というか入院に近いのだろう。彼らの様子からもそれは伺えた。
失くしたのだと思っていた。
死んだのだと思っていた。
絶望の中で、殺されたのだと、思っていた。
けれども大和は殺さなかった。
大和は殺さなかった。
全てが瓦解する。
撫子の中にあった憎しみやあらゆる負の感情が瓦解する。
涙と共に全てが溶けて流れていく。
大和の腕を撫子は掴んだ。
必死で、掴んだ。何と言っていいのかわからなくて、それでも撫子は訴えかけるように大和の腕を掴んだ。
世界は変わって仕舞った。
許せなかった。
皆殺されたと思っていた。
許せなかった。大和を許すことが出来なかった。
大和に惹かれた自分の浅ましさも、そして尚も生かされているこの現実を撫子は許せなかった。
でも、許せる。
撫子は大和を許せる。世界はこうなってしまったが大和を許せる。
撫子は大和を許せた。
零れる涙を大和は黙って見つめ、それから、撫子に命を下した。

「せいぜい私の機嫌を取れ、撫子」

口付けが激しい。
いつもより、ずっと深く大和は撫子を抉る。
溢れる涙の中で撫子は大和を見た。
監禁されてから撫子がまともに大和の顔を見たのは数えるほどしかない。
大和はいつだって撫子の嫌がる部分を、心の一番見透かされたくない場所を抉った。
暴いて痛めつけて酷いことをした。
でも、今改めて見た大和の顔は何処か疲れているようにも見えた。
何も云わず撫子を見つめる大和は十七歳の筈だ。
何処か達観したような顔をして、撫子を見下ろしている。
堪らなくなって撫子は大和に手を伸ばした。
生きていた。生きていた。死んでいなかった。
絶望はあった、誰の胸の内にもあった。でも終わっていなかった。
終わっていなかった。
その日の交合で初めて撫子は大和を欲した。
「・・・っ、あ、」
大和に煽られるように撫子が腰を浮かせばすかさず大和の腕が背に回った。
起こされるように大和のものを受け入れる。
体力が落ちているものの受け入れることにだけは慣れていた身体は難なく大和を呑みこんだ。
「・・・っ、あ、アッ、」
いつもこうだっただろうか、撫子は霞む頭で考えた。
匂いも、空気も、何もかも違う気がする。
大和にこうして望まれれば反応する身体を撫子は浅ましいと屈辱だと感じていた。
けれども今はどうだろうか、大和に触れられて中を揺さぶられれば、涙と共に、嬌声を上げる自分が居る。
快感が堪えられなくて耳まで赤く染めたまま、それを悟られるのが恥ずかしくて撫子は大和の肩に顔を埋めた。
「撫子、」
大和に囁かれれば撫子は堪らず、悲鳴を上げる。
全身に快楽が巡り、どうしようもない心地に撫子は溺れた。
「あっ、アッ、う、あっ、」
もっと欲しい、もっと深く欲しい。
大地達が死んでいないと知った途端、こうなる自身の浅ましさに撫子は慄えた。
怒りでも無い、憎しみでも無い、ただ恥ずかしくて、撫子は眼を伏せた。
それを誘っていると誤解されたのか、大和は撫子を横たえて、より深く求めてくる。
「欲しいか?」
「あっ、っ、あっ、」
近くに大和の顔がある。恐ろしい程整ったその顔が撫子は愛しい。
「欲しいか?撫子」
「あっ、ほし、欲しい、っ」
お願いだ、と撫子が云えば大和は激しく動いて撫子の中に自身を放った。
何が欲しいのか、それは大和の精なのか、それとも大地達の自由なのか、或いは、大和の愛なのか。
「やまと、大和っ、」
夢中で強請れば大和は撫子を離さないと云わんばかりに抱きしめながら再び動き出す。
それに、溶かされる。
満たされると感じる。
大和で、大和で何もかも撫子は埋め尽くされる。
「あ、あ、もっと、っ、」
惹かれていた。こわかった。間違ったと思っていた。
でもそんなものはどうでもいい、今このとき、撫子はすべてを許せた。
撫子は大和を愛している。
絶望はあった、誰の胸の内にもあった。でも終わっていなかった。
終わりでは無かった。
まだ撫子と大和を繋ぐ希望はあったのだと思った。


大和は眠る撫子の髪を撫ぜる。
常より感じたらしい撫子は昇りつめれば簡単に意識を落とした。
元より体力が落ちていたのだから無理は無い。そんな撫子にこんなことを強いることの方が間違いなのだ。
大和は撫子を見つめた。
撫子のほっそりとした身体は綺麗だ。
起きればその透明で美しい眼も見れたのだが、眠りの内くらいは幸せにしてやりたい。
絶望がある。誰の胸の内にもある。
大和の内にあるそれは絶望だ。
手にした筈の撫子。失えない唯一の存在。
彼は女では無く男でありこの関係がどれほど歪んでいるのかを大和は知っている。
それでも手放せない。
狂っているのは自分なのだと大和は自嘲気味に微笑んだ。
髪を梳く、さらさらと大和の指から零れ落ちるそれは大和を拒むようだった。
撫子を生かす為に、彼等の映像を見せた。本当なら見せるつもりは無かった。
撫子は大和の思惑通り、水を得た魚のように輝きを取り戻した。
それを見て大和は思う。
撫子を捕えて意のままにして、性行為を強要する。
強者である大和だから許されることだ。
けれどもこれが許されるとは大和は思っていない。
許されることでは無い。
それでも大和は撫子を愛している。
愛されなくても、大和は撫子を愛している。
「撫子、」
想いはいらない。愛されなくてもいい、生きて傍にあればそれでいい。
でも、と大和は想う。
「君を愛することがこんなにも苦しい」
苦しいと呟いた大和の言葉は何処にも行けず、部屋の隅に消えていった。


05:
生きながらにして
この絶望
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