「いやだ、」 拒絶の言葉を彼が吐き出したのは初めてだ。 だからこそ大和は僅かな驚きと共に内心から沸々湧き上がる怒りを抑えられなかった。 「撫子、君は優しいから彼らの言に惑わされているにすぎない、君は私と居るべきだ」 優しく云ったつもりだ。極力大和は優しく接したつもりだ。 撫子にだけは大和は甘さを見せた。それは彼が大和の特別であったからだ。 大人しい癖に、戦略や総合判断は非常に優れている。実際の戦場で初めて部下を、彼の云うところの仲間を死なせない将を見つけたのはこれが初めてであった。まして育ちは良いらしいが、市井の者の中からこれほどの逸材を見つけられるとは大和は思ってもいなかった。撫子という青年に出会ったのは大和にとって僥倖であったのだ。 ましてその控えめな態度に穏やかな性格、そして洗練された仕草、人を惹きつける撫子の美しい其れ等は大和を甚く満足させた。 思わず可憐だ、と大和に云わせるほどに彼は魅力的であったのである。 故に、彼は大和の手を取るのだと思っていた。大和の提案に少し困ったように曖昧な笑みを浮かべたものの、彼の判断はいつだって的確で合理的であった。心配なのはその優しさであったが、それを咎める気にも大和はなれなかった。それこそが撫子の魅力であるからその全てを引き受けても余りある価値が撫子にはあったのだ。 けれども彼は来なかった。あの選択の日に選択の時間に大和の手を取らなかったのだ。 だからこそ大和は立った。一人でも成す為に、そして優しい彼を惑わした全てを一掃し彼の眼を覚まさせる為に立ったのだ。 「撫子!」 大地が撫子の前に立とうとする。撫子は維緒を回復しようと無防備になっていた。 「その名を呼ぶな、汚らわしい!」 撫子を呼んでいいのは大和だけである筈だ。そうだ、撫子は自分だけのものであればいいのだと大和は思う。それが自分の為にも撫子の為にも良いのだとさえ思える。この愚民達が撫子を惑わすのだ。だから大和はそれを断罪しなければならない。 クズと一緒に居ても撫子に害があるだけだ。撫子はもっと崇高な場所に居なければいけない。 大和は撫子に駆け寄ろうとする大地を迷いなく討った。 血が飛ぶ、地面に大地が投げ出される前に、大和の使役する悪魔が維緒に襲い掛かった。 くらり、とする。撫子の頭が真っ白になる。 大和と対峙した。戦闘は回避できなかった。 彼は酷く怒っていた。 撫子以外の首を刎ねて、撫子の目を醒ますのだと云う。 何が、起こったというのか。 この一瞬で何が起こったのか。 今此処にある惨状は何だというのか、必死に戦ってきて、確か前日まで一緒に戦っていた筈だ。 けれども今、世界の理をポラリスに示すと其々が分かれてしまった。大和は実力主義を、ロナウドは平等主義を、そして大地はそのどちらでも無い道を模索する為に。 上手く行っていた筈だ。大和と対峙するまで、大丈夫だった筈なのだ。 けれども大和は撫子が予想していたよりもずっと怖い。怖ろしかった。 大和は大地達を癌だと、不要だと云って、首を斬るのだと今戦っている。 撫子は茫然としたまま倒れる大地と維緒を見た。虫の息の彼らを助けなければいけない、立ち竦みそうになるが撫子はどうにか奮い立って大和を睨んだ。 すると大和はどうしたことか笑みさえ浮かべて撫子に両手を広げる。 おかえり、と云わんばかりのそれに撫子は恐怖する。 動こうとして、衝撃を感じた。 右に召喚していた悪魔を消されてしまう。断末魔の悲鳴を上げて悪魔は空間に消えた。 唯一回復を持っていた悪魔を失い、手持ちの悪魔も魔力ももう無い、左の悪魔も咄嗟に大和に襲い掛かったが駄目だった。 手を一本づつもぎ取られていくような感覚に撫子は目を見開く。こわい、歯の根ががちがちと鳴る。けれども口にした。折れない為に口にした。 「倒れるわけにはいかない」 倒れるわけにはいかないのだ、大地を、維緒を助けなければならない。 助けなければいけない。 けれども、勝敗は一瞬で着いた。 大和は仕方ない、と呟き、そして一瞬で撫子の懐に入ってきた。 あ、と思った時には強い衝撃が頭に来て、そして意識が沈みそうになる。 いやだ、駄目だ。そう思っても何もかもが遅かった。 大和は撫子の腕を折った。悲鳴を上げる撫子に、それでも尚抵抗しようと、戦意を失わない撫子に舌打ちをして、もう一度頭に強い衝撃を感じて、撫子が崩れ落ちる。それを優しく受け止めて、大和は笑う。 「動けないだろう?痛みで痺れて、脳震盪を起こしている、腕は済まなかった。後で治療しよう、少し我慢してくれ」 そう優しく云いながら大和は撫子を引き摺るように歩き出す。 いやだ、と微かに口にすれば、大和は歌いだしそうなほど機嫌が良さそうに其処を歩いた。 血溜りの中、大地と維緒の悲鳴が聞こえる。 悲鳴が、止まない。 地獄だ。 此処は地獄だと撫子は思う。地獄の中、大和は歩く。撫子を引き摺りながら、此処では無い何処か遠くへやってしまう。 こわい、いやだ、死なせてくれ、こわい。 動かない身体で、きっと身体が動けば撫子は自分で自分を殺しただろう。 それさえも許されず、彼は悪魔の軍団を引き連れながら、創世を成した。 創世は成されて仕舞った。 撫子をジプスに連れ帰り治療し、理を一つにする為だと、彼は撫子の意識を操った。 創世を成した時の記憶が撫子には無い。その部分だけが欠落している。 傀儡にするのならずっと傀儡にして欲しかった。 意識など戻して欲しくなかった。けれどもどちらにしてもわかったことがある。 世界は終わって仕舞った。 あの日世界は終わったのだ。 「厭だ」 大和は創世を成して直ぐ撫子を閉じ込めた。 撫子を守る為だと、部屋に閉じ込めた。 其処は何も無い。窓も何も無い、ただ生活に必要な家具が置かれているだけの部屋。 食事だけが運ばれ、身体を何度も清められ、けれども部屋からは一歩も出ることは許されない。 一度開けようと試みたが、電子錠に加えて霊的な封印も施してあるらしく、扉に触れることすら撫子には出来無かった。 それどころか、扉から半歩のところまでしか撫子は行けない。結界が貼られているのか、物理的に撫子が其処から出ることが出来無いのだ。 「済まない、忙しかったのでな」 三日ぶりに見た大和は少し機嫌が良さそうにベッドに顔を埋める撫子に触れようとする。 「俺に触るな」 「何だ、まだ怒っているのか?ポラリスに謁見し世界を改変するのに君の力を勝手に使ったことは悪かった」 そうだ。大和は無理矢理、自分の血液を撫子に飲ませ何かをした。その瞬間から撫子に意識は無い。ただ創世は成された。気付いてから聞かされたのはそれだけだ。食事を運んでくるジプスの人間は一言も撫子に口を聞かない。撫子がどうなっているのか問うても何も答えなかった。故に撫子は結局食事を拒否するという行動に出たが、それを聴いて大和が飛んできたのだろう。 「食事を拒否しているそうだな、撫子、内容が気に入らなかったか?」 君の好みそうなものを用意させたつもりだったが、と大和の声色だけが優しくてそれが撫子には恐ろしい。 「それとも、世界を勝手にこうしたことを怒っているのか?君の意見を聞かなかったのは済まないが、君に相応しい世界になった筈だから心配は不要だ」 殊更優しく大和は撫子に云う。 其処に潜む狂気に撫子は震えた。 これはまるで毒のようだ。 毒のように大和は撫子を枯らしていく。 撫子が何も云えないままでいると察したのか「ああ、そうか」と大和は云う。 「撫子、君は志島や新田達クズのことを怒っているのか?」 瞬間、撫子は大和に対して手を上げた。殴ろうと振り下ろしたところで大和に止められる。 「・・・・・・っ!」 予想したよりもずっと強い力で大和に捻じ伏せられる。 そして気付けば至近距離に大和の顔があった。 「君は私のものだろう?撫子」 「誰が、お前に、」 「私と居るのが君の幸せだ」 「放せ、大和」 抵抗を試みようと、撫子が身体を動かす。大和はそれに対して意を介した風も無く、ただ見下ろすだけだ。けれども撫子は見逃さなかった。この部屋に一切鋭利なものは無い。撫子を傷付けるものは何一つ無い。 だから大和のコートの内側にナイフがあることに気付いたのだ。 咄嗟に大和を押して撫子はそのナイフを奪った。 「それでどうする?私を刺すか?」 「そんなことはしない」 ぐ、と撫子は躊躇いなく自身の首にナイフを当てた。 あとは刺すだけだ。これで大地と維緒のところに逝ける。行方不明の両親にも会えるだろう。 もう楽になりたい。終わりにしたい。 この世の終わりで生きる意味など撫子には無い筈だ。 刺そうと撫子が力を入れた瞬間、それは無くなった。 大和だ。見れば大和は撫子の手にしたナイフを奪い、一瞬で何処か別の空間にやって仕舞った。 「勝手に私を置いて死ぬか、撫子、」 こわい。大和のその目が怖い。その薄い眼が自分に向くことが撫子は怖かった。 「君の我儘は好ましいが、それは許されることではない、歯向かえばまだ可愛いものの、君は自分を殺す傾向にあるのか、それなら私にも考えがある」 ぐい、と大和が撫子に近付いた。鼻が触れるほど近くなって、退かそうと撫子がもがけば、一層近くなり、そして衣服を割かれ腕を縛られる。 「・・・・・・っ、何を・・・」 「君は私を恐れている」 「・・・っ、大和・・・」 唇が戦慄く、恐怖で身体が慄える。 大和は歪んだ笑みを浮かべ、撫子に圧し掛かったままゆっくりと露わになった撫子の平らな胸を撫ぜた。 「それと同時に、君が自覚していない事実を教えてやろう」 「大和、っ」 身を捩れば隙間なく大和が体重をかけてきて、撫子は呻いた。 唇に降りてきたそれが口付けだと気付いた時に彼は云った。 「最初から私に惹かれているのは君だろう?撫子」 02:それは絶望の音にも似た |
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