このままでは俺が危ない、透稲葉がそう思うのはもう何度目のことか、とにかく危ないの一言に尽きた。
逃げるように稲葉は部屋に戻り、ばくばくする心臓をどうにか押し留め、ともすれば叫びたくなる感覚を堪え、添え付けのサーバーにある水を取って飲み干した。
「顔、赤い・・・」
駄目だ、と思う。このままでは危ない。一体何が危ないのか、そんなの決まっている。大和だ。
稲葉は大和に触れられると身体中が熱を持って全部が攫われそうになる。それだけは駄目だ。
「シャワー浴びて頭、冷やそ」
それだけは駄目なのだ。だって稲葉はノーマルだ。
普通に女の子とHがしたい。いっそ大和の云うように迫とどうにかなるのが良いとすら今は思える。相手として悪く無い。
大和は駄目だ。
何が駄目なのかわからない。けれども大和は稲葉をとんでもない遠くへ連れて行く気がする。
「莫迦だな、俺・・・」
世界を変えた時もこれほど動揺しなかった。それが自然だと錯覚するほど自然にポラリスへ挑んだ。なのにあの時の無謀さは何処へ行って仕舞ったのか、稲葉は今大和と自分との間に横たわる距離が途方も無く遠くに思えた。
繋ぎたい、離して欲しい、許したい、赦して欲しく無い、相反する感情がごちゃまぜになる。自分が大和の手を取らずにもし大和が遠くに行って仕舞ったらどうしよう、とまで思う。多分、答えは決まっていた。
稲葉と呼ぶ、いなはと呼ぶ最後の人を失くして仕舞うことがどうしても稲葉には出来ない。何故大和なのか稲葉にはわからない、でも自分は手を伸ばすに違いなかった。それが血みどろの結末になっても稲葉にはもう大和しかいない。そんな筈は無い、大地も維緒も他の仲間達も居る。けれども、大和しかいない気がした。あんな風に透明に響く聲で稲葉を呼ぶのは大和しかいない。
「・・・無理だろ」
自分には大和は荷が重過ぎる。大和ほど賢くもなければ何かができるわけでも無い。特別なのは少し霊力が強いという点だけだ。確かに世界で一番強いかもしれないけれども、それはあくまで力の面だけで稲葉は矢張りただの高校生だ。大和のように心が強いわけでも無い。確かに稲葉は誰の手でも無く大和の手を取った。けれども大和とこうして関係が変わっていく過程に心が追いつかない。
答えは決まっている、それでもまだ無理だった。
このままでは駄目だ。このままでは駄目になる。何が駄目なのか何が危ないのかよくわからない、けれどもそれだけは確かだった。
「家出しよ、」
少し大和と距離を置いた方がいい、そう判断して稲葉はシャワーを浴び、手近な荷物を纏め、その日の内にジプスを出た。


稲葉がジプスを出て数日、大和は一切動揺を見せなかった。
稲葉が何処に居るかは疾うに掴んでいる。大和がそんな愚を冒す筈も無かった。稲葉のことはわからないなりに行動パターンや心理面を分析している。如何なる人間をも使ってみせてこそのトップである。稲葉だけが大和の例外であったが、その稲葉を大和が手放す筈も無い。最初こそ無理矢理に関係を持ったが、それさえも稲葉が「好きなひとと居れば幸せ」だと大和に教えなければこうはならなかった。例え稲葉のその言葉が無くても、身体を繋がなくてもそれなりに友好な関係を築けただろうが、それはもう過去のことだ。大和は稲葉を最早手放す気も無い。だからこそ無理矢理関係を持ち稲葉の意識を大和に向けさせ、少しづつ稲葉との距離を詰めた。稲葉が混乱の末に出て行くことも織り込み済みである。
こうなれば長期戦である。大和は好きだと稲葉に意思表示し続けた。そして稲葉は大和の手に必ず戻るという確信がある。卑怯なようだったが、稲葉は大和に名を呼ばれるのにこだわっている節がある。それを利用するようで悪いとは思ったが、これも正攻法であると大和は考える。戦略の上で待つのは慣れている。どれだけかかろうとも大和は稲葉を待つつもりだった。
今稲葉は志島大地の元に居る。幼馴染なのだから当然であったが些か癪ではあった。あの稲葉だからこちらが何のアクションも起こさなければそのまま居ついて仕舞う可能性もある。しかし、今は待つ時だ。
「私だ、稲葉については逐一報告しろ、手は出すな」
早く帰ってくればいい、と思いながら大和は目の前の仕事に意識を戻した。

*

「稲葉、お前いつまで此処に居るんだ?」
稲葉が炊き出しの手伝いをしていたら背後から現れた大地に問われて、じゃがいもを変な形に切って仕舞った。
今稲葉が居るコミューンは大地を中心とした比較的中立派の集合体だ。周囲十キロ圏内を活動エリアとし、ルールも厳密化しつつある。力が全ての世界でも様々な分野で力のある者、つまり才能がある人間は居るということだ。大地はそんな中でも中堅のグループを維緒達と纏めていた。近頃では一部の余った土地で畑なども作っているから比較的安定してきたと云える。勿論その手伝いを影ながらしてきたのは稲葉であるが、ひとまず大地達が自立できる環境が整って安堵もしていた。
「いつまでって、まあ時々は戻ってるよ」
「仕事はやってるのは知ってるけどさ、大和うるさいんじゃないの?」
俺たちは助かってるけどさ、人類最強のお前が居て、と大地が言葉を足した。
「いやそれが全然」
「嘘だろ、あの大和が?」
「うん、なんか好きにしろって感じで、忙しいのかすれ違いもしないし」
そう実は、三日に一度程度、稲葉はジプスに戻っている。稲葉には稲葉の仕事があったし、討伐などの責任ある業務もあったので全てを投げ出してもよかったが、稲葉付きの補佐の人間に事務作業は任して稲葉は外で出来る仕事だけを行っていた。
時々、情報交換や報告の為にジプスへ顔を出す必要があったのだ。
家出と云えばそうだが稲葉のそれは単に寝場所を変えただけとも云えた。
「忙しいのか、何か戦争でもやるつもりかな」
「まさか、無いとは云えないけど、そうなるのならもっと大掛かりな筈だし、そんな大きな勢力が生まれたとは聴いていない」
「上位悪魔の管理は稲葉がやってるんだったか」
「云、強い悪魔がこちらに出現すればジプスが討伐に向かう、手に負えない場合は大抵俺か大和かが出向いているし、今のところポラリスよりは強く無いから大丈夫」
「お前が云うと洒落にならないよな、まあお陰で俺たちも楽させてもらってるけどさ」
主に塩とか、と大地が塩の袋を指差して笑った。これは稲葉がジプスから持ってきたものだ。
勝手に持ってきたのでは無い。ちゃんと食堂に赴いて大和専属のシェフから頂いてきている。
結局、大和が忙しいのだと稲葉は思い込んでいる。その方が楽だからだ。万一大和が稲葉から興味を反らして仕舞ったのだとしたら、此処に立っていることさえ稲葉には出来そうになかった。大和がわからない。大和との距離をどうしたらいいのか稲葉にはまるでわからなかった。けれども大和は稲葉を邪険にしている様子も無いので、力の上では稲葉がまだジプス、否、大和には必要だということはわかる。だからこそ稲葉は帰ることも出来ずに中途半端にジプスと大地の元を行き来する羽目になっていた。
先日迫に会った時には稲葉の近況を聞いて大層呆れられ、また心配されもしたが、そういう時期もある、と稲葉を宥めてくれた。
それに安堵しながらも稲葉は甘える形で結局どっちつかずの場所へ身を置いている。
「大地、水出すぞ」
一言断ってから稲葉が鍋に水を注ぐ。此処では飲める水は貴重だ。
ジプスと違って大地達はインフラの整備が不十分な場所に拠点を置いている。それは別のグループとの抗争を避ける為でもあったし、女性が比較的多いこのコミューンでは必要な処置とも云えた。勿論実動部隊は常に巡回して中の安全を見回っているし、大地達とて途中までは稲葉と共に戦った仲間だ。それなりに強かった。
けれどもインフラ面まではそうはいかない。大地達はまだ学生であったし知識が少ない。少しづつそういうことがわかる大人達を交えて水や電気を調達して生活していた。最近になってお風呂がやっと二日に一度程度入れるようになったと維緒が笑っていたのを思い出す。此処はジプスの稲葉が与えられた最高級の場所と違って何もかも自分達の手でやらなければならなかった。
「まあ風呂についても徐々に改善するよ、悪魔達も居るしな」
「大地って意外とたくましいよな」
「意外は余計でショ、酷い稲葉クン!」
当たり前の遣り取りに稲葉は笑って仕舞う。そう、少し前までは普通に学校に云って受ける大学や将来に悩んで、それが当たり前だった。
「うん、でも大地が元気で良かった」
「俺もお前が元気で良かったよ」
そう云い合える大地は矢張り幼馴染なのだろうと思う。
近いわけでも無く遠いわけでも無い。ただ辛くなって傍に寄れば突き放さず、いつものように接してくれる。それがお互いだった。
その日の夕飯はカレー粉を稲葉が貰って来たお陰で、久しぶりに塩オンリーの味付け以外を食したと大層喜ばれた。
稲葉が居候しているのは大地が使っている部屋だ。部屋と云っても廃ビルの中を少し整えた程度のもので、維緒などが中が住み易くなるように少しづつ改装をしている最中だ。それも少し手伝いながら、大地の部屋で雑魚寝が習慣になってきている。
夜中でも緊急の場合はジプスから連絡があるのでその方が都合も良かった。
大和との生活と此処での生活の違いを思う。必死で生活をしている大地達、反して稲葉が居るジプスでは前の世界と変わり無いかのように電気もガスも水もある。クーラーもパソコンもネットワークも当たり前に機能していた。けれども実際の現実は違う。実力主義は文字通り実力だけが全てだ。
当たり前のようにその格差を見れば、世界をこうして仕舞ったことに大地達に少なからず恨まれているのではないかとも思う。けれども誰も稲葉を責めはしなかった。勿論力で稲葉に適う者が此処にはいないからだ。誰も稲葉を殺すことは愚か傷つけることさえ出来はしない。それでも、この理不尽に、世界をこう変えて仕舞ったことに、大和の手を取って仕舞ったことに後悔を覚えない自分が一番嫌になった。謝ることも出来ない。ただ郷愁と憧憬の為にこうして幼馴染を心配することが偽善だとさえ思えてくる。大和は稲葉のそれを看破しているだろうか。否、しているのだろう。賢い男だから稲葉をこうして好きに泳がせているのも大和が赦したからだ。大和がその気になればこのコミューンなど一瞬で破壊できる。勿論そうなれば稲葉と大和との全面戦争になるが、それは無い。稲葉は大和から離れられないのだと既に自覚している。大和の手しか取れないのだと、いなは、と呼ぶ大和を稲葉は捨てられないのだとそしてそれを大和は理解しているのだと確信した。
「そろそろ潮時かな」
大和を思い出す。思えば既に一月以上大和とまともに顔を合わせていなかった。
綺麗好きの彼のことだから今の稲葉の惨状には顔を顰めるだろうな、と稲葉は微笑みながら眼を閉じた。
明日には一度ジプスに戻ろうと、そう思いながら稲葉は意識を暗闇に委ねた。


翌日、大地達に断りを入れ、一度戻ると伝えた。
大抵稲葉は日中仕事で動き回っているので大地達も気にはしていない。
そろそろお風呂にも入りたかった。大地達のところを使えばいいと云われたが水が貴重だとわかっている分どうにも気が引ける。
稲葉は稲葉の為に用意された無尽蔵に使っても赦される風呂がジプスのタワーの最上階にあるのだ。
大地達の分を使うのは申し訳なかった。
一度報告がてら帰るついでにシャワーを浴びてさっぱりしようと思う。
思い立ったら吉日、悪魔を召喚して一瞬でジプスに戻り、適当に報告と未処理案件を伝えてから久しぶりに自室に戻った。
砂や油で汚れた服を籠に放り込み、浴室に入ればいつでも入れるようにと設定された湯船がお湯をたっぷりと湛えている。
稲葉が戻るかもわからないのに先ほど見たリビングには、いつ戻ってもいいようにとフルーツが置かれ、携帯用の固形食がいくつか用意されていた。相変わらず至れり尽くせりの環境である。後でいくつか日用品を大地達に差し入れてやろうと思いながら稲葉は汚れた身体の垢を落とし、シャンプーで頭を洗う。思えばこれも久しぶりだった。
ざ、と職員用のエリアでシャワーを浴びることはあってもこうして自室で身体を綺麗にするのは此処を出てから初めてだ。
なんとなく戻り辛く、自身に云い訳をしながら先延ばしにしていた。
けれども、この二重生活をして大和から離れれば離れるほど稲葉は大和を思い出す。
大和の仕草や、行動や、言葉の一つ一つが稲葉を縛る。
不意に、いなは、と大和が稲葉を呼ぶ瞬間を思い出した。
瞬間、ぞくり、と稲葉の身体に疼きが奔る。
思えばこうして大和のことをじっくり考えるのも久しぶりだ。忙しくして大和から逃げるように稲葉は過ごしていた。慌てて稲葉は記憶の大和を振り払おうとするが一度思い出せば、様々なことが如実に思い出されてくる。
思えばこの一月稲葉は自身にさえ触れていない。
一ヶ月も経てば流石に健全な男子であるのでむらむらするのは仕方無い。
大地達といれば一人になる時間も少なかったのでそんな暇さえ無かった。
けれども今此処は稲葉の部屋であり、稲葉だけに赦された空間であり、まして浴室である。誰かが来る可能性など皆無であったし今は真昼で大和も仕事だ。同じ階に居る可能性は無いと云えた。
「・・・ちょっとだけならいいよな」
抜くだけだ。ちょっと掻いて抜くだけ。すっきりしたら終わり。
一度そのことについて考え始めるともう頭はすることで一杯だ。
稲葉は恐る恐る最近全く触っていなかった息子を洗いがてら労わることにした。
そして迂闊にも稲葉は気づかなかった。その時まさか背後に大和が居たなんてことに。


09:一寸先は大和
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