翌日稲葉の目が覚めた時、大和が隣にいないことが救いだった。
シーツに温度が無いことから大和はあれから稲葉が眠るのを確認して直ぐ戻ったのだろう。
既に皆仕事に従事している時間である。
稲葉は勢い良く起きた。昨夜は思い出すだけで死にそうになるが大和がきっちり処理までしてくれたので身体の方は少し疲れがあるものの快調である。いい加減慣れてきたのかもしれなかった。
其処まで考えて稲葉は首を振る。
慣れるなんて冗談じゃない。このままこの行為が続いていい筈が無いのだ。
そもそも大和は友情とセックスを間違えている。此処はつながってはいけないところだ。
だからこそ稲葉は大和に教えなければならない。
これは最早死活問題であった。

そんな稲葉を他所に大和はと云えば大変有意義な時間を過ごしたとご満悦である。
何せ、あれ程あった稲葉の拒絶が少なかったのだから当然である。ムードを作って正解であったと大和は思った。手間ではあったが腹心達に傾向を訊き対策を練ったのが功を成したようだ。他人の営みに毛ほども興味は無かったが稲葉が望むのなら、それも悪くないと大和は思っている。稲葉が大和に教える物は大和を豊かにした。
そして大和は稲葉はやはり、丸め込めばいける、などと稲葉が聞けば激怒しそうなことを内心で思っている。
しかし此処で引く稲葉でも無かった。
このままではいけない。あの大和の猛攻をなんとかする為には、互いの間にあるものが友情を前提にしたものであることと、そして何より、セックスはいけない。流されて気持ちよくなったとしてもいけない。
断固拒否しなければならないと、稲葉が辿りついた結論は一つだった。
「大和、お前に話がある」
数日後、仕事はあるものの、それなりに落ち着いた午後を見計らって稲葉が大和に聲をかけた。
夜の夕食時にしなかったのは万一流されてはたまらないからだ。今なら大丈夫である。
「今此処で必要な話か?」
「ああ、」
稲葉の返事を訊くや大和は人払いをした。
大和は稲葉が稀に大和に意見を述べる時に必ず人を払う。誰かの意見が必要な時はその都度適任者を呼ぶという形にしている。稲葉には理解できなかったが、実力主義のこの世界において、稲葉が大和と公の場で話をする、意見交換をするということはこの世界の行く末を左右するトップ会談に他ならないのだ。どんなに馬鹿らしいことでも真実そうであるのだから、必要なことだった。
それを利用するようで稲葉は心苦しいが大和が人払いをしたのでこれで話が終わるまで誰もこの執務室には入って来ない。
稲葉は改めて大和に向きあって云った。
その一言を云い放った。

「大和、お前を男にしてやる」

「それはどういう意味だ・・・稲葉、私は問われるでも無く男だが、お前が私を立てるという意味だろうか?」
数秒の沈黙の後に、大和が云った一言で、稲葉は言葉の選択を誤ったことを知った。
「いや、違うからね、違うからね、変な意味とかじゃないからね」
「変な意味とは何だ?」
「いや、もういいから、もういいから、忘れろ、何でもないから!」
「それで?」
それで、と大和は腹が立つくらい整った顔を稲葉へ向けた。
「話とはなんだ?」
そう云われると稲葉は言葉に詰まる。今から自分が口にすることがとんでもなく恥ずかしいことのように思えた。
しかし、と稲葉はぐ、と腹に力を入れた。このままではいけない。
このままではいけないのだからやる事はひとつだ。
稲葉はあれから考えた。大和がああして事に至るのは有り余る性欲の所為であると。大和からすれば完全に的外れでありいっそ哀れではあったが稲葉的にはこうでも考えなければやっていられない。
要するに爆発する若い性欲を消化させればいいのだ。何もセックスなどして中に吐き出さなくても、男が男に挿入する筈では無い場所に吐き出さなくてもいい方法。要は抜けば収まるのだから大和に健全な男子の処理の仕方を教える。これに尽きた。
大和がインしなくてもこれさえ教えれば女性が見るからに面倒と云う態度の大和もその性欲を稲葉でなくても処理できるのでは無いかと考えたのだ。要するに一人Hである。
簡単お手軽、誰かの機嫌をとる必要も無ければ、誰かを呼びつける必要すらない、右手が恋人という状態のあれである。
大和のことであるからして確実にそれは知らないだろう。というか教えたら峰津院の人に自分が殺されるんじゃないか(返り討ちにするけれど)と思う稲葉であった。しかし、そんな下卑たことを大和に教えることになっても稲葉には守らなければいけないものがある。悲しいかな己の貞操であった。
「つまり・・・だな・・・・・・」
「つまり?」
「俺がお前に、」
「稲葉が私に?」
「教えてやるって云ってるんだよ」
「教える?何をだ?」
小首をかしげる様は残念ながら美形であるので可愛くもあったが、そんな仕草をされても稲葉はときめかない、否、ときめいてはいけない。ちょっときゅん、として仕舞っても駄目、甘やかす駄目絶対!いつもそれで流されるのだから駄目!もしかしたら稲葉は自分が面食いなんじゃないかと些か不安にもなったがとにかく流されてはいけないのだ。
「一人でする方法・・・」
「稲葉?」
ぼそぼそ、と云う稲葉の言葉が聞き取れないのか大和が不可思議な顔をしている。居た堪れなくなって稲葉は叫んだ。
「だから、一人ですっきりする方法を教えてやるって云ってんの!」
たっぷり三十秒の沈黙の後に、大和は手元にあった書類の束を畳んだ。
そしてにっこりと微笑とも云えるレベルの笑みを浮かべ、彼は云ったのだ。
「稲葉が教えてくれることなら、なんでも」と。

ぐあああああああ、と稲葉は内心悶絶していた。既にもう無かったことにしたい。綺麗さっぱり世界がこうなる前に、こいつに出会わなかった時に戻したい。けれども現実には今この世界で世界の頂点の二人が執務室で何が悲しいのか、一人Hのレクチャーなんてことをする羽目になっている。人払いをしているからいいものの、世間様は真剣に大和と自分が世界の議論をしていると思ってくれている筈なのでそれさえもなんだか申し訳無いやら後ろめたいやらでもぞもぞする。しかし、既に言葉を発して仕舞った以上、やっぱ後でとも云い難く、結局稲葉は、あ、あー・・・ごほん、などと意味不明な精神統一を図り、大和に向き直った。
大和は大和でわかっているのかわかっていないのか、稲葉の好きにすればいいと、椅子に座っている。もう死にたい。
どうにでもしてもいい、という大和の態度にも稲葉は悶絶しながら、そして意を決し腹に力を入れて覚悟を決めた。
「とりあえず脱げ」
稲葉が云うや否や、迷うことなくコートを脱いで更にネクタイを外そうとする大和に稲葉は慌てて制止の聲をあげた。
「いや、違うから、違うから、ちょっとずらすだけでいいから!」
「コンドームを嵌めた時のようにか?」
「うっ、お前本当はわかって云ってるだろ」
「稲葉?」
いなは?と問われれば稲葉は弱い。もうこの天然タラシめ!と内心わけのわからない毒づき方をしながらも、稲葉はどうにか頷いた。
「そ、そう!とりあえず、ずらして、出して・・・」
「こうか?」
あっさりとスラックスを寛げて下着をずらした大和を直視できずに稲葉はとにかく頭を縦に振った。これが大地だったら絶対恥ずかしくない筈だったし、稲葉もこれほど動揺しない。相手が大和なのがどうにもいけなかった。大和は十七歳のくせに生意気だと思う。
「それでとりあえず擦れ」
「指でか?」
「ゆびでです!」
何故敬語になるのか何故執務室で昼間からこんなことを指南しなければならないのか、稲葉はぐるぐる回る頭でとりあえず目的だけは達成しようと決意した。けれども擦る為に大和を覆っていた手袋が机に置かれ、白い肌を目にするとどうにも居心地が悪い。大和は基本的にガードが固い服装しかしないので、顔以外で肌が見えると妙に緊張した。
「コンドームは装着しなくてもいいのか?」
「今はいい!ゴムは関係ない!」
慌てて訂正を入れながら先を促すとものの数秒もしないうちに大和が不満を漏らした。
「・・・難しいな」
ぽつり、と呟いた大和の言葉に稲葉は急激に現実へ引き戻される。
「難しい?」
「コンドームを装着する為に勃起させたことはあっても、こう目的もなく云われると難しい」
必要なことか?と大和に再度問われ、稲葉は言葉に詰まった。
必要とも云えなくもないが、大和には不要なものである確実に。
「したことが無いからな、まさか市井の者は皆このようなことを?」
「まあ、だいたいは、あー・・・」
其処で思い当たった。子供じゃ無いんだから擦って出るものでも無い、必要なものがもう一つある。
「あれだよ、なんか写真とかビデオとかさ・・・そういうの」
稲葉が言葉を濁して云えば、大和には伝わったようで、ああ、と机の引き出しから何冊かの雑誌や写真集を取り出した。
「グラビア、だろう?以前稲葉が云っていたのでな、用意させてみた」
「云ったっけ?」
全く記憶に御座いません。しかし大和はきっちり記憶していたらしく、そのいくつかの冊子をぱらぱらと捲ってから一言のたまった。
「女性があられもない姿で男の性を挑発すると云った目的らしいな」
「言葉も御座いません・・・・・・」
大和にこう云われるとなんか泣けてくる。どうせお前はこんな苦労も下卑た愉しみも知らないのだろう。一応弁解のようであるが稲葉はこの手のものにお世話にならなくても彼女には苦労していない。今はそんな余裕は無いが、余裕が出来ればそのうち誰かと付き合ってみるのもいいとは思っていた。その手のエキスパートはどちらかというと大地である。大地がいないのをいいことに此処でも大変な扱いであったが概ね幼馴染とはそういう扱いである。
「実にくだらんな、」
「お前は今全国の『性少年』を敵に回した」
「くだらないものはくらだない、私には理解できん」
そんなもの呼べばいくらでも来るだろうと云ってのける大和には一生理解できまい。一般人はいつでも最高の女性を呼びつけるなんてことは出来ないのだ。
「じゃあ、あれだよ、好きなひとを想像する、とか・・・をだな・・・」
瞬間、大和の視線が稲葉に向いた。
じ、と見られる。その視線の意味に気付いて稲葉は顔に熱が集まるのを知った。
「つか俺を見るな、わかってても見るな、其処は目を閉じろ!」
想像で!と付け足して、大和を見れば肩をすくめて目を閉じる。そして指を動かしているらしい。
一体何を想像しているのか考えたくも無いが、わかっていても此処はツッコんだら負けである。襲って下さいと云っているようなものである。だから例え大和の想像が稲葉であっても稲葉は耐えるしかない。全ては己の貞操の為である。
うあああああ、と勝手に内心で稲葉がもがもがしていると、大和が静かな聲で「終わったぞ」と事の終わりを告げた。
「え、あ、うん、終わった!」
じゃあ、と執務室のチェストの端に置かれていたティッシュ箱を取りそれを大和に投げる。
「それで拭いて、気になるなら手を洗って終わり!」
わー!ほら超簡単!お手軽!そう云いながらも稲葉の内心は動揺したままだ。大和は云われるままにその白く長い指を綺麗に拭いて、手は洗わずに何処から取り出したのかアルコールティッシュで指先まできっちり拭いていた。
そして拭き終わった後の彼の感想はこうだった。
「成る程、良く分かった、これで簡単に処理するのだな」
「分かってくれたなら良かった、じゃあ俺仕事に戻るから、」
そそくさと部屋を出ようとする稲葉にいつの間に後ろに来たのか、大和は華麗な笑みを浮かべて云った。
「そう云うな、稲葉、『俺』がやったんだ、お前もやるべきじゃないか」
この時稲葉は、選択を誤ったのだと確信した。


「・・・っ、うあっ・・・・・・!」
びくりと身体が揺れる。稲葉の背後に圧し掛かっているのは大和だ。
執務室の机の上にうつ伏せになるように圧し掛かられて、挙句ジーンズのチャックを下ろされ下着から稲葉の一物を取り出され、大和に良い様にされているのは情け無いことこの上ない。
年齢的には一つしか違わなくても体格的には大和の方が悔しいかな、しっかりはしていた。
悪魔を喚んでも良かったが、この状況は流石に恥ずかしい。いつもそういった理由で大和を拒みきれないのだが、と其処で今回ももしかして流されているんじゃないかと稲葉は我に返った。
「いや、なんかおかしくね?おかしくね?」
「何故だ?私もしたのだから『おあいこ』だろう?」
「なにが『おあいこ』だよ!ちっともおあいこじゃねぇよ!だいたい一人でやるって・・・・・・」
「ならば、」
ならばと大和はあっさり稲葉のものに這わしていた指を離す。少し固くなった其処からは先走りが漏れているに違いなかった。
「一人でやるか?稲葉」
「一人で部屋でやるよ!部屋で!」
「それでは割に合わない、私は先ほどお前の前でしたぞ」
「それはレクチャーであって、溜まったら抜いとけ的な教訓だろうが!普通は一人の時にするの!」
「協力してやる」
「人の話訊いてる?ねぇ訊いてる?お前莫迦なの!?」
「私を莫迦というのは稲葉くらいだ」
だが其処がいい、と云われて再び指を這わされ、後はなし崩しである。
正直、触られると気持ち良いのもいけなかった。
「・・・・・・うっ、く、」
こんな場所で昼間から煽られるように触られて、変なスイッチが入りそうだ。
大和の手淫は巧みで、何処で覚えたのか、初めてとは思えない動きで稲葉を追い詰める。
「・・・っ・・・」
ぶるり、と慄えて稲葉が折れた。
吐き出したのだ。大和はそれを確認すると満足そうに稲葉の首筋に唇を落とし、それからそれをティッシュで拭った。
稲葉と云えば稲葉で、もう居た堪れないし、空気もあれだし、とりあえず空調を全開にして無かったことにしたい。もう死にたい。けれどもこれだけは云わなければならない。
「とりあえず、もうしないからな!やりたくなったら今教えた通りに一人でしろよ!」
わかったな!とまるで捨て台詞のように云い残してジーンズのチャックを上げて逃げるように部屋を出るので精一杯であった。

しかしこれはそれだけでは終わらなかった。
失敗した。失敗した失敗した、稲葉は今目の前にある惨状に冷や汗が噴出した。
あれから一週間、これで安全だと思っていたのに、事あるごとに大和が稲葉に触れてくるのだ。勿論インは無い、厳密に云えばセックスでは無い。大和は稲葉の教えたこの行為が簡単スピーディーかつ何処でもできると気付いて図書室や執務室など所構わず手を出して来る様になったのだ。
ちなみに今はこの高層ビルの稲葉と大和の居住区への直通エレベーターの中で、だ。
失敗した。苦虫を噛み潰したような顔をして稲葉は改めて背後の男を見遣った。
「いい加減、にっ、大和・・・!」
稲葉の必死の抗議も聴かず、大和はけろっとした態度で、それが当然と云った風に稲葉を抱きしめるように、己の雄を近づけてくる。勿論インはしない。インはされないが、これは本末転倒では無いか、と稲葉は冷や汗を垂らした。
やっぱり駄目だ、こいつ早くなんとかしないと・・・。
「インモラルだ・・・」
「常識など、この世界では私が法だ」
きっぱりと言い放つ大和に稲葉は涙が溢れそうになるがその通りである。大和が法である。ちなみに稲葉も法であったが。
ならお前の法じゃなくて俺の法を通させてくれよ、と稲葉が云うが今のところ性的な出来事に置いてそれが通った試しは無い、残念ながら。
「稲葉は身内に対してガードが甘いから心配になる」
「俺はお前の頭が一番心配だよ!」
「私の心配をしてくれるとは優しいな稲葉は」
「死ねば!もうお前!なんでそんなおめでたい頭してんの!」
「稲葉が望むなら」
「大和お前莫迦だろ、っあ、」
ぎゅう、と擦られれば駄目だった、頑なに拒んでいた腕から力が抜ける。エレベーターの壁に押し付けられるように大和に羽交い絞めにされて、ジーンズを太腿まで下ろされ下着をずらされ、大和の手淫で快感を与えられる。
はあ、と熱くなる頭で下肢を見遣れば、大和は手袋を付けたまま稲葉のものを掻いている。
それが酷く淫靡に思えて稲葉は一層身体を震わせた。
「稲葉、」
いなは、と甘く耳元で囁かれれば駄目だ。
「・・・っ、卑怯だ」
ぶるぶると慄えながら稲葉は悔しくて、大和のものにスラックスの上から触れた。これには驚いたようで大和が僅かに身じろぐ。
「俺だけは卑怯だろ、っ」
「ふふ、それはいいな」
大和の甘い囁きに溶かされる。駄目だと思いながらも一矢報いる為だと自分に言い訳をして稲葉は大和のものを追い詰めた。
追い詰められているのは自分であるのに、ならばと、固くなっている大和のものをわざと服の上から刺激してやる。
エレベーターを見ればもうじき最上階だ。基本的に稲葉と大和しか入れないフロアであっても其処でどうこうなるのは勘弁してもらいたい。
「・・・っく、あっ」
追い上げるように互いの手の動きが早くなり、稲葉が達した途端、エレベーターが止まりドアが開いた。
大和はまだ達していない。服の上からだから仕方無いと云えたが稲葉は転がり出るように下着とジーンズを上げて「あとはお前でやれよ」と逃げるように部屋へ戻った。
残された大和はそれを見届けながら、微笑を浮かべ、解放されない己の熱を持て余す。

「悪くないな」
解放されないのは辛かったが稲葉の手によってこうなったかと思うと悪くない。
手袋には今しがた稲葉の放ったものが熱を持っていた。
其処から伝わる青臭さに甘いものを感じながら大和は天井を見上げる。
無機質な天井からは空調の音がし、大和はその熱を持て余しながら、少し余韻に浸った。
「稲葉」
いなは、と呼ぶその聲には少しの苦しさと熱っぽさ、そして痺れるような甘さを以って空間に掻き消えた。


08:甘さと余韻
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