かの局長の顔の痣は瞬く間にジプス内で注目の的となった。
朝、このまま寝ると云って再び意識を手放した稲葉に大和はケットをかけ直し、部屋に運ばれた朝食を口にした。しかしそれを見て驚いたのは朝食を運んだ者の方だ。給仕の者は大和を見るなり口をぱくぱくとさせ、「何があったのですか」と詰め寄った。
当然、医者を呼ばれたが大和は頑なに治療を拒否、悪魔を喚んでの治療するしないで周囲が揉めたが、結局大和は如何なる治療も拒否した。かつて生まれてこの方顔に傷など作ったことが無いであろう大和が、しかも左目元から頬にかけての酷い腫れと痣を作った局長が、無表情のまま出勤し、何事も無くその日の仕事に従事した。
時折痛そうに顔を顰めたあたりで、見かねた局員が氷を持ってくる。拒否するかと思いきや余程痛かったのか氷については許可された。
「透局長は・・・・・・」
「稲葉は今日は休みだ」
はあ、と局員は頷くしかない。十中八九、あの局長が怪我の治療をしないということは彼が傾倒して止まない稲葉絡みであると予測はできたがそれに口を出せるほど愚かでは無い。逆らっても許されるが失敗すれば此処では死に直結する。
出勤しない稲葉と局長の謎の痣、暫くジプスの僅かな休憩時に交わされる話題の全てを独占したトップニュースとなった。
そして名実共に世界の頂点に君臨する峰津院大和の顔の痣は治るまでに一週間以上を要した。

稲葉はあれから大和との仲が微妙だ。
何が微妙かというと普通すぎて大変微妙だった。
あれから大和の部屋で再び寝入って、気付けば夕方だ。勝手に大和の部屋の浴室を借りて一息吐く。浴室は彼の拘りなのか檜風呂だった、今度から使わせて貰おうと勝手に稲葉は思う。それはさておき大和の浴室で何の処理かも考えたくもない処理までして痛む身体を引き摺るように自室に戻ればあとに稲葉を待っていたのはトイレとの交友会だった。
酷い下し方で、医務室に連絡しようかとさえ思ったが何があったのかと問われれば云いたくも無い。稲葉は苦渋に顔を滲ませながらその腹痛の悪夢をなんとか越えたのだ。夜に大和が来るかと思ったが大和は来なかった。ただ、大和の世話を代々取り仕切っている給仕頭の初老の男性から「今日はお身体の具合が悪いと伺いました」と大変身体に良さそうな雅な夕食が手配されていた。
それから稲葉が自室でまた泥のように眠り気付けば翌日の昼だ。
殆ど一昼夜眠っていたことになる。身体はまだ少し重いが動けないほどでは無いし充分眠った所為で頭もすっきりとしている。
なんとか取り繕えそうだと思い、稲葉は用意をして部屋を出た。
そして遅刻してごめん、と下の局に顔を出せば厭でも大和が目に入る。
意外なことに稲葉の目に入った大和の顔には盛大な痣と腫れが残っていた。
正直、直ぐに治すのだと思っていた。こうして殴っても大和か大和の周りの誰かが治療するだろう。だからこそ稲葉は思いっきり殴った。最も稲葉は疲れていたし手を動かすのも億劫なほどであったからたかが知れている。殺すどころか骨を折ることすら出来ないだろうと思ったから手加減はしなかった。
けれどもどうだろう。大和は端正な顔に不似合いなほどのみっともなく腫れた頬を、明らかに誰かに(勿論、稲葉だ)殴られましたよ、としか云い様が無い紫色になっている痣を部下の前に晒している。
プライドの高い大和のことだから耐え難くはあるだろうが怖くて誰もツッコめないのか、或いは稲葉が寝ている間に既に済んだ話なのか、時折痛そうに顔を顰めては部下が持ってきた氷を頬に当てて仕事をしている大和が可笑しくてそれまで何を云おうかとか、やっぱりお前を許せないとか、ちょっとタイマン勝負でもしようや、とか、そんな言葉が稲葉の中から全部吹っ飛んだ。
つまり稲葉はこれで溜飲を下げたのだ。

「おはよ」
「ああ、おはよう稲葉」
おはよういなは、と大和はいつもの調子で云う。
極普通のなんでもない挨拶。
だからこそ微妙だった。まるで変わらないような挨拶をしていつものように各々の仕事に向かう。
ただそれだけで、変わったことと云えば、厄介な悪魔が出てきたので制圧してくれと申請があって、大和の手が回らなかったので稲葉が代わりに珍しく掃討戦を行ったことぐらいだった。
二日に一度はあった大和の夕飯の誘いも無く、大和は遅くまで仕事をしているようだった。
ただ、大和の酷かった痣が少しづつ治ってきて、十日も経てば殴られたかどうかもわからないほどに治ったところで、大和が来た。

「夕食を一緒にどうかと思って」
いつもの誘い文句。
電話かメールで連絡すればいいのに、大和はいつも突然やってくる。稲葉が其処に居るのかどうかを確認するようにやってくるのだ。
「いいよ」
部屋に通せば大和は無言で着いてくる。程なくして給仕の人間が夕食を配膳した。
いただきます、と稲葉は手を合わせてから豚の角煮に手を伸ばす。今日は中華だ。稲葉が以前食べたいと云っていたリクエストであったが大和も何を云うでも無く無言で食べている。食べ慣れていないのかと思いきやそうでもなさそうだった。フカヒレのスープを啜る様は相変わらず絵にはなる。
「顔の痣、治って良かったな」
「ああ」
「訊かれたろ、何があったかって」
「ああ」
「何で治さなかった」
「そのぐらいの甲斐性は私にもある」
甲斐性と云われて、稲葉は眼をぱちくりと瞬かせた。
大和は至って大真面目らしく、この場合の意味は生活能力的な意味では無く覚悟ということなのだろうと稲葉は納得する。
「それで、どうしたいの?」
「何をだ?」
「俺はお前をまだやっぱり許せないし、正直出て行くことも考えた」
小龍包を箸で摘みながら稲葉が云えば、大和の指がぴくりと止まった。
「出て行かれるのは困るな、私が不満か?稲葉」
いなは、と大和に云われると稲葉は時折苦しくなる。胸が締め付けられるような感覚に近かった。
いなは、迫や菅野も稲葉を名前で呼ぶが、彼女達は大地達と行動していた所為かイナバと呼ぶ。
正しい名前の呼び方に迫が気付いた時、訂正しようか、済まないと大真面目に謝られたが、イナバでいいと答えたのは稲葉だ。
それが当たり前であったし家族以外では呼ばない名になっていた。それだけだった。
けれどその家族はもういない。いなはと呼ぶのは今のところ大和だけになって仕舞った。
だからこそ離れ難いのだろうかと稲葉は思う。莫迦な、たかが名前だ。そんなもの正しく呼んで欲しければ訂正すればいいだけの話だ。
けれども、最初から、いなは、と呼んだのは家族以外で大和だけだった。
「不満だけど、お前との距離間が掴めない」
「距離か、私もその件については話し合おうと思っていたところだ。食事を終えてから話そう」
珍しく食事を終えてからと大和は云う。たまに仕事の話や雑談が過ぎて食事の後、無駄に大きなリビングで話すことはあったがこうして面と向かって話し合おうと云われたのは初めてだった。
何か緊急の案件でもあっただろうかと稲葉は頭を巡らすが、今話していたのは距離についての話で、何のことかさっぱりわからない。
結局食事が終わるまで互いに何も会話せず、食後にと用意されたお茶をリビングに置いて貰って話し合いと相成った。


「私はクズが嫌いだ」
「うん、で、何云ってんの?」
いいから聴け、と不遜に大和が言い放つ。ソファに座っている稲葉に対して大和は立ったまま窓の外を見下ろしている。
少し前までは明かりも無かったが、少しづつインフラが整備されてきたので夜の明かりがちらちらと見えていた。
「クズなど死んで同然、力の無いゴミはゴミらしく燻っていればいいと思っている」
出遭って数日も経たない内に、舌打ちをしたりクズがクズらしい仕事をしたとか云ったりする男であるのでこれが大和のデフォルトであると稲葉は理解している。そしてこいつは幼い頃からそうして他人を見下して生きてきたのであろうということもわかっている。
大和がこうなったのは彼を育てた周りの大人達の所為だ。大和は幼い頃から多くを要求され、或いは理不尽に踏みつけられ、彼は彼なりの苦渋を味わってきた。
日本という国家を支える為に代々犠牲になってきた影の一族が表舞台に現れたからには世界を取ることに他ならない。
そして大和はそれを実行し体現した。
寧ろ其処に何の因果か携わった稲葉の不幸を悲しんで欲しい。一般の、一介の高校生にすぎなかった稲葉が全ての選択権を持っていたのだ。
「クズしかいないと思っていた、多少使えても、多少使えるゴミが増えただけのことだ、真に力ある者、知恵ある者は少ない」
「それで?」
思えば大和も十七歳だ。過ちを犯してうっかり稲葉を襲ってしまったにせよ、これほど抑圧された環境で育てばこの歪み方も仕方無いのかもしれない。実際大和は優秀であったし、仕事もできる、頭も良い、力もあれば統率力もある。無駄の無い組織体系を作るのにこれ以上適した人間はいない。けれども大和は十七歳だ。あまりにも何でも出来すぎて自分が出来ることを他人が出来ないのが上手く理解できないのだろうとも思う。しかし考えてみれば稲葉の方が大和より出来ないことが明らかに多い、稲葉が霊的な力の面以外では劣っていると大和もわかっている癖に大和の中で稲葉がどういう位置付けなのか、大和にとって稲葉のすること成すこと全てが両手を挙げて大歓迎状態であった。そこが稲葉にはわからない。
「群れるしか能が無い愚民共の中にお前が居た」
「それ前に聴いた」
デザートに用意された杏仁豆腐をスプーンでつつきながら稲葉がおざなりに返事を返した。耳にタコが出来るほど聴いている内容だ。
大和はいつも声高に稲葉の自慢をする。これもよくわからない。
「市井の中にお前のような奇跡を見つけたのだ」
我が盟友よ、とゲームの中でしか聴かないような言葉を面と向かって云われても、それも云われ慣れているので稲葉にしてみれば「だから?」であった。確かにお互い、この温度差による距離感はなんとかしないといけないのかもしれない。
云うなれば例えたく無いが一応付き合い始めの男女が居たとして、彼氏の方が適当に付き合ってみて良かったら、みたいなお試し期間に対して彼女の方が勝手に盛り上がってしまって、このまま彼と結婚とか、どうしよう!指輪とかどうしよう!子供は二人がいいな、家は一軒家で、そして彼が就職してそれを私が家で待っているの!・・・的にどんどん妄想を広げてしまっていて、その気も何もまだお前のことあんまり知らないよ、Hはしたけど、よくわかんないよ的な彼氏と彼女の温度差のようなものである。
そこまで考えて稲葉は、あ、駄目だ。と思った。
この場合彼氏は行き過ぎた彼女の思考についていけず温度差を埋められずに別れるパターンになる。付き合ってもいないが、一瞬大和と別れたくなった稲葉だった。
既に稲葉と大和の溝は大きく互いの価値観の違いも大きく、埋めようが無いほどに精神的な距離は開いている気がする。
「それで、」
「うん、それで?」
稲葉はこのあたりからもうどうでも良くなってきている。いつもの高らかな哂いを潜ませ大和の様子が少しおかしくても、もうどうでも良くなっている。今日は何か映画でもみようかなとディスクを収めた棚の中身を思い出す程度にはどうでもよくなっていた。
「それで、だな・・・・・・」
珍しい、あの大和の歯切れが妙に悪い。
稲葉は思考を映画から大和に戻した。
大和はごそりとポケットから何かを取り出す。
「これを持ってきた」
云いにくそうにぼそり、と大和が呟いて、出されたのはコンドームだ。箱に極薄と書かれているそれだった。箱の表面に書かれてある文字を見て稲葉は思った。
確かに距離は近い、肉体的には。


04:
極薄0.02ミリメートル
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