盲目の秋


次の講義では同じ筈だった。けれども相手の姿が見えないうちに
講師が講義を始めた。鐘は疾うに授業を告げている。ヒートは周囲を伺いながらも慌ててノートを取り始めた。
夏の暑さはすっかり退き、銀杏の樹が黄色く色づいてきた季節だ。
吹く風は冷たい。朗々と響き渡る講義の最中、ノートに文字を走らせながら、
意識の片隅に現れなかった彼を思った。

「嗚呼、シェフィールド?」
聲をかけた相手はダヴェンポート学舎だ。サーフと同じだからと云っても
この広い学内でそうそう知っているとも思えなかったがどうやら
当たりだったようだ。
「どうかな?確かに欠席なんて有り得ないけれど」
少し考えるようにしてから次の講義があるのか慌しく用意をして席を立った。
「部屋NO判るか?」
彼がわからなければ学生課に訊きに行かなければいけなかったが、
その必要は無かった。サーフはどうやらダヴェンポートでは有名人であるらしい。

次の講義は幸い空き時間だった。
特に取り立ててすることもなかった、普段は予習にあてている時間だ。
ヒートは誰も居なくなった教室を後にし、先程訊いた寮のサーフの居室を
訪ねることにした。居なければ居ないでいいのだ。
寮舎は一度入学前に見学に行ったことがある。学内十二の学舎にそれぞれある上に、寮にもランクがある。主にABCの3つのクラスで学年毎に選べる制限が
かかる他、3人部屋、2人部屋、一番いいのが同じ規模で個室だった。
サーフの部屋はどうやら寮端の上階個室であるらしかった。
ほとんどの学生は講義で出払っているらしい。足音が響くほど静かな廊下を
歩いて目的の部屋を見つけた。ドア口に『サーフ・シェフィールド』と確かに
サーフの文字で書かれてあった。ヒートは少し息を吐きドアを叩いた。
2度3度ノックをしても人の気配は無い。留守なのか、ともう一度叩いてから
諦めようとした時、不意に後ろから聲がした。
「バークレーのトライブが何の御用でしょう」
見知った聲に振り返るとサーフだった。
「お前!」
驚いて次の言葉を探しているうちにサーフは部屋の鍵を空け、
さっさと部屋に入り込んだ。
「待てよ!今日の講義、、!!」
慌ててヒートが追いかけて中へ続く。中へ入ったところで
サーフが手にしているものを見て合点がいった。
「・・・熱あるのか」
サーフが手にしていたのは氷嚢と薬、医薬局のマークが入っている。
それと学生生協で購入したのだろう、簡単なレトルト食品とポカリスエットだった。
「ん、」
手を当てると確かに熱い。試しに何度あるのか問うてみると、
「9度」とサーフが云うので眩暈がした。
「さっき医大の方で注射を打ったから大丈夫」
サーフが手を払い、腕の注射跡を見せる。
「体調管理不行き届きだな」
ヒートが呆れたように云ってサーフにベッドを促し、
氷嚢を敷き、薬とポカリスエットは枕元に置いた。
残りは小さいながらも備え付けの冷蔵庫に仕舞った。


一通り片付けたところでサーフを見る。
熱で苦しいのか、目を閉じていた。
たまらなくなって部屋を漁る。(といってもサーフの部屋は彼らしく綺麗に
整頓されていたのであまり探す必要も無かった)手頃なサイズのタオルを
見つけてそれでサーフの身体を拭いてやった。
「お前、個室なんて上等だな」
揶揄うように云うとサーフが口元を綻ばせた。
熱のピークは注射によって下がってきたらしい。
「部屋NOは何処で」
サーフの問いにヒートは基礎心理学のダヴェンポートの受講者だ、と
答えた。特徴的な容姿を伝えるとサーフは得心したのか「ああ」と返事をした。
「ダヴェンポートで俺の部屋を知らないなんて奴は少数派だろうな」
何故、と問う前にサーフが口を開いた。
「最初は2人部屋だったんだ」
うちも裕福じゃないんで、とサーフが云う。それでもヒートのように母子家庭でも
無いし、バイトに追われるほどでもない、こんなお金のかかる私立大学なのだ、
その点でサーフは一般的な中流家庭と云えた。
「で、どうして個室になったんだ?」
ヒートが先を促すとサーフはコップにポカリスエットを注いで口に含んでから
続けた。
「自慢じゃないが学内でも最年少で入学を果たしたS氏は、寮に入った。
寮は勿論男子寮、女子寮に分かれている」
S氏とはサーフのことだ。何故こんな言い方をするのかヒートには
わからなかった。無言で先を促す。
「自慢じゃないが頭も顔も良かったS氏は同室の男に襲われたのさ」
「!」
「その上自慢じゃないが運動神経も良かったS氏は3つ年上の男をなぎ倒して外へ放り出した」
「お前な・・・」
いくらなんでもやりすぎだろうと、云いかけてやめた。
サーフの細さや小ささを思うと恐ろしかったのかもしれない。
「で、表沙汰にもできないから、有り難くも寮長の先輩方によってこの部屋が
提供されたってわけ」
その一件でサーフは有名人になり、学舎においてサーフの安全は確保される
運びになったのだと云う。
「本当かよ、それ」
疑うわけでは無いがこの男のことだ、半信半疑で問うとサーフは笑った。
「今までも何回かあったから慣れてるんだよ」
そう云って目を伏せたサーフは綺麗だった。少なくともヒートはそう思う。
だからサーフがそんな目に合うのが腹立たしくなった。


「もし、今度そんなことがあったら、俺に云えよ」
そう云うとサーフは目を丸くしてヒートを見つめる。
ぱっと、夏の向日葵のように笑った。
「俺はそんなに柔じゃない」
サーフが云う、だが万一のことがあったら、と云う前にサーフが
悪戯に口を歪めた。
「この部屋、寮長の隣りなんだ」
嗚呼、成る程、そうか、そうか、とオチに笑うしかなかった。
寮長の人柄について話すサーフはどうやら珍しく人に好意的な口調だった。
6つも年上で彼女も別棟の寮長であるとかで、抗争の多い学舎には
稀な文学人らしい。その寮長が年端も行かない未成年に何かあってはと
寮内では大変な庇護を奮っているらしい。
「今時笑えるよね」
そう云うサーフの表情は穏やかだった。
思わずサーフの頬に手をやってから、
「それでも何かあれば云えよ」
友達なんだから、と云うとサーフは無言で頷いた。

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