その姿を見たとき、幻でないかと思った。
朝、ジプスに現れたその人物は一階のロビーに座っていた。
何でも無い様に、ごく自然な態度で局員に挨拶し、慌てた局員が、何人かの間を取り次ぎ、詳細を知る幹部の耳に届いて、その幹部が取り急ぎ大和に取り次いだのだ。
「朝から何事だ」
「突然申し訳ありません」
大和は深夜まで鎮圧部隊を統括していて戻ってもその後処理で寝る間もなかった。朝方漸く眠りに着いたのだ。
撫子の部屋に戻るのは苦しくて結局、大和は自室に戻って眠っている。
撫子を想えば想うほど苦しくなったが、それでも何処かで幸せになってくれるのならそれで良かった。
今なら迫に礼が云えそうな程だ。撫子を開放して、大和の手から逃れさせて良かったのだとそう思える。
だからこそ大和は憑りつかれたように仕事に没頭した。朝から晩まで働いて疲労でベッドに入ればどうにか眠れた。様々な懺悔や撫子に対する想いに苦しまずに済んだ。迫はあれから通常業務に戻している。大和から全く咎めが無いことに驚いたようだが、律儀な彼女は事の仔細を大和に報告すると自室で謹慎した。謹慎から通常業務に戻るように再三伝えて先日漸く復帰したところだ。
大和は着替える間も無く眠ったので皺の入ったシャツにスラックスというみっともない姿だ。
せめて着替える時間くらいは待てないのかと睨みながら大和は腹心の男を促した。
「西の火種が燃え上がったか?あれなら迫を向かわせたから大丈夫かと思ったが、他に未確認の悪魔でも出たか?」
「いえ、そのような報告はあがっておりません」
「では何だ、私が朝方まで仕事をしていたのは知っているだろう、もう少し眠らせろ」
不機嫌に大和が云えば腹心の男は申し訳ありませんと再度頭を下げた。
「しかし、火急にお伝えすべきことが御座いまして、」
「何だ、早く云え、私は無駄を好まない」
珍しく口ごもる男に大和は苛つく、常ならば用件だけを的確に述べる男が言い淀んでいるのだ。
「はっ、局長、撫子様が・・・」
「撫子?」
今、大和の前でこの言葉はタブーだ。誰しもが腫れ物のように扱う話題である。
大和があれほど固執していた撫子を手放した、挙句その逃亡に加担した迫にも謹慎はあったもののお咎めなしなのだ。飽きたのか、何なのか、真相は本人にしかわからないが、ジプス内では重大なニュースであった。
その上撫子達を見かけても手出し無用という命令まで出たのだ。皆が皆大和の前で口を閉ざすのは無理も無かった。
「あれのことには構うなと云っている」
「しかし・・・・・・」
言い淀む男を大和は冷たくあしらった。
「撫子には触れるな、捨て置け、手放したものに私は興味が無い」
嘘だ。これは嘘だ。
手放してもずっと撫子は大和を苦しめる。撫子のことが気になって仕方が無い。苦しんではいないか、何処か病気ではないか、環境は大丈夫か、何処に居るのか、何をしているのか、自分のことなど忘れて幸せになってくれるだろうか、撫子を想えば大和の胸は痛んだ。けれどもそれでも自分の手元に置くよりもずっと撫子の為には良い筈だ。志島も新田もそれなりに力はある。あの二人が傍に居れば早々に危ない目にも合わないだろうと思った。迫ならば居場所を知っているだろうが、それも訊かなかった。訊けば最後、撫子の所に行って仕舞うかもしれない。堪えきれず撫子の前に立ち、再び奪って仕舞うかもしれない。そう思うとどうしても居場所を知ることは出来なかった。撫子の為に、或いは自分の為に、居場所を知らない方が幸せだと思ったからだ。
「しかし、局長・・・・・・」
はっきり告げて尚も言い淀む男に大和は不快を露わにした。
そもそもあまり眠っていないのだ。不機嫌にもなる。
下がれ、と云おうとしたところで、声が聞こえた。

「手放したものに大和は興味なくても俺は用があるよ」
目を瞠る。
莫迦な、そんなの、あるわけない。
だって此処はジプスだ。
彼を閉じ込め苦しめた場所だ。
居る筈が無い。
彼が居る筈が無いのだ。
「・・・・・・撫子・・・」
撫子が、居る筈が無い。
「何故・・・もう戻って来ないかと」
「うん、戻るつもりは無かった、此処を出たときはそう思っていた」
「何故戻った、お前が私の前に立てば私はもうお前を手放せない」
「知ってる」
莫迦な、と大和は思う。今目の前に居る男は錯乱しているのか、志島の姿も見えない。大和に復讐しに来た様子も無い。撫子はただ穏やかに大和の前に立った。それに手を伸ばしたくなる。触れたくなる。
抱きしめて存在を確かめたくなる。
指を伸ばそうとして大和はその手を止めた。
駄目だ、触れてはならない。撫子を自由にしなければならない。
撫子は優しいのだ。だから大和を許そうとする。それは愛じゃない。
大和が欲する愛では無い。
「帰れ、此処はお前の居る場所では無い、必要なものがあれば何でも持っていけばいい」
「俺、此処にいることにした」
「撫子!」
手放した。手放した筈だ。あれほど欲しかったものを大和は手放した。撫子を愛しているから手放した。次に撫子が戻れば想いが叶わぬとわかっていても再び閉じ込めるとわかっていたからだ。大和は撫子に幸せでいて欲しい。自分が撫子を幸せにできればよかったがそれは叶わない。叶わぬことだ。撫子の愛を得られない以上、大和は撫子を縛り付けて支配するしかない。
だから手放した。手放した鳥が戻っては意味が無いのだ。
大和は撫子を恐れるように目を逸らした。
「帰ってくれ・・・頼むから・・・」
「大和はいつも俺に好きかと訊いたね」
「真実など聴きたくも無い、」
好きかと大和が問うて、好きだと撫子が答えるそれ。そんなものは嘘だ。大和が云わせた。大地達の命を盾に云わせたに過ぎない。
其処に真実は無い。己が撫子であったのなら真実は呪詛であろうと思う。呪いの言葉を吐き、殺してやると云うだろう。
そんなことを聴きたいわけでは無い。或いはこれが自分が撫子にした仕打ちの仕返しだろうかと大和は思う。
けれども撫子は大和に近付いた。
大和が触れられなかった距離を撫子は簡単に詰めた。
「なでしこ・・・」
撫子は俯いている。温和な彼にしてはらしからぬ雰囲気だった。
彼は肩を震わせている。それが居た堪れなくて大和は撫子の名を呼んだ。
「何故泣く、」
彼が泣くのは苦しい。何度も泣かせた大和が云えた言葉では無いが胸が痛んだ。
「大和はいつも信じない」
「泣くな、」
涙を拭おうとして大和が顔を近付けた瞬間、撫子は顔を上げた。
彼の綺麗な宝石のような目からいくつも涙が零れ落ちる。どうして良いかわからず大和はおずおずと撫子を抱き締めた。
抱き締めれば久しぶりに嗅ぐ撫子の香りに満たされる。
「泣くな、撫子」
「俺、大和が好きだって何度も云っている」
その言葉に驚いたのは大和だ。
抱き締める手を解き撫子を見る。
「嘘だと、あれは私が云わせた」
けれども撫子は首を振った。違うのだと、大和に告げた。
「此処までしないと大和はわからないんだ、大和はいつだって俺の言葉を信じなかった。だから俺は戻ってきた。俺、大和が好きだよ、凄く好きだ。多分最初から好きだった。酷いこともされたけどずっと好きだった、嬉しかった。だからこそ俺は大和の上でも無く下でも無く大和と同じでいたい、俺はお前を愛しているんだ」
ぽろぽろと大粒の涙が撫子から零れる。透明な涙がいくつもいくつも止め処なく撫子の眼から溢れて、大和は真実を悟った。
彼は間違いなく今、真実を告げている。
大和から逃げ遂せたというのに、馬鹿みたいにこの鳥籠に戻ってきて、そして自分を好きなのだと涙を流して訴えている。
撫子の言葉に大和は茫然とした。
いつから?最初からだと撫子は云った。最初から撫子は大和を好きだったと、あれほどに酷いことをして、責めたてて、奪って何もかもを塞いで、大和しかないという状況にして、それでも撫子は大和を好きだった。愛していた。
大地達を生かしていたからこそ撫子は従順になったのだと大和は思っていた。けれどもそれは真実では無かった。
大和が撫子を愛していたように、撫子もまた大和を愛していた。
だから彼は今真っ直ぐに凛と大和の前に立っている。
一つしか違わない彼は庇護するべき対象だと思っていた。付き従う存在が相応しいと思っていた。
けれども違うのだ。
彼は真に強い。成すべきことが何かを心得ていた。
弱いと思っていた。本当に弱いのは大和の方だ。子供なのは大和の方だった。
彼を力で手にし傷付け、嫌われても身体だけでもと押さえつけ全てを奪った。それでも彼は許した。大和をずっと許し続けたのだ。

「お前は大人しいから愛されるのがいいと思っていた」
「俺は女じゃない」
「そうだな、お前も男だったと云うことか」
大和が云えば撫子は笑みを浮かべた。
「好きだよ、大和」
「ああ、噫、私はお前を愛してる、叶うのなら撫子を幸せにしたい」
「云、俺も大和を幸せにしたい」
幸せにしたいと切に願う。傷付けた分、苦しんだ分、何をも犠牲にしても彼の幸せだけは叶えてやりたい。
それを伝えれば生意気だと彼は笑うだろうか、大和は撫子の涙を舌で救いながら思った。
「話をしようよ、今度こそちゃんと話して行こうよ、大和。ぶつかることもあるかもしれない、今より辛いこともあるかもしれない。笑ったり泣いたり、苦しかったりしても一緒に生きていこうよ、そしていつかそういうものをひっくるめて全部良かったと思えるように努力しようよ、俺はそういう風に大和を愛していきたい」
大和を愛していきたいのだと彼は云う。
その言葉だけで充分だ。
その言葉だけで大和は救われる。

「済まなかった」
大和は撫子を引き寄せ抱きしめる。
指を絡ませ、精一杯の愛を込めて彼に口付けた。
今度こそ、間違わないように、正しく彼を愛せるように、想いを込めて。


10:精一杯の謝罪と
感謝を込めて

読了有難う御座いました。

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