鳩の栖


その日は運悪く雨だった。
大学の講義を終えたヒートは顔を顰めて空を見上げる。
灰色の空はもう一生晴れることなどないのではないかと思わせるほど、
どこまでも深かった。
「早いね」
既に慣れた聲が耳にかかる。
サーフだ。講義の合間に偶然会うことはあっても、今日の講義では
終了後に会うことなどはヒートに記憶においては無かった。
何故、と問うより前に敏いサーフが先に口を開いた。
「休講だよ、先に云って欲しいよね」
掲示板を指差して答える。サーフの専攻している学科は休講であるらしい。
受講生と思える人だかりがまばらに集まっていた。
「帰るの?」
サーフの問いに(サーフはいつだって唐突に口を開くことが多いので
ヒートはもうすっかりそれに慣れた頃合だった。)
「ああ、今日はバイトも無い」
ゆっくり部屋の掃除でもしてレポートの続きをする。
と答えるとサーフが丁度良かったと云うように手を叩いた。
「それなら心理統計法の資料、貸してよ」
この間、図書館から借りたものだ。講義に必須という訳では無い資料だったが
目を通しておくに越したことはなかった。図書館を通すと、予約されている可能性があったので延長してサーフに貸すと先週約束したのだった。
「臨時収入があったから奢るよ」
その言葉に俺は断る理由も無く頷いた。



「うわ、酷いなぁ」
スーパーマーケットで食料品の買出しをした頃には、小ぶりだった雨は
本ぶりになっていて、傘がなければずぶ濡れになる状態だった。
雨を眺めていたサーフは後ろで食料品を袋に詰めるヒートに聲を掛ける。
「傘買おうよ」
指を指したのはビニール傘だ。スーパーの従業員が雨を見て、奥から
引っ張り出してきた。確かにお誂え向きではあるが、ヒートは首を振った。
「駄目だ、無駄金を使うくらいなら俺は濡れる」
それに、此処からだと走ればそんなに時間はかからない、とヒートは
大真面目な顔でサーフに云った。
云われたサーフは半ばヒートのケチ臭さに閉口しながらも
(それは故に彼は貧乏学生だからと承知した上であるが)
はいはい、と口にして、ヒートの文句が聞こえる前に走り出した。
ヒートも追って走り出す。



「びしょ濡れ・・・」
アパートに着いた頃には、双方びしょ濡れで、
全身を洗濯する必要があった。
「スニーカーの中、気持ち悪い」
足踏みをするサーフの靴からは水と空気が生暖かくブレンドされた
厭な音が鳴る。
「其処に置いておけ、あとで乾かす」
ヒートはそう指示して、サーフへタオルを投げた。
「風邪ひかれてもなんだ・・・」
ヒートはかろうじてセパレートになっているシャワー室を指差した。
「ヒートは?」
「俺も後で入る」
サーフは指差された通り、シャワー室を遠慮なく借りることにした。
狭いながらもマメに掃除されているのか清潔なバスタブに少し湯を溜めて、
シャワーを浴びる。あまり長居をすると今度はヒートが風邪をひきかねない、
自分達のような優等生には病気は禁物だった。
温まったところで先程渡されたタオルで身体を拭き腰に巻く。
「ヒート、シャワー浴びなよ」
隔ててあったカーテンを空け、リビング兼ダイニング兼勉強部屋の要するに
1ROOMなのだ、のメインである処へヒートを呼びに行く。
不意うちだったのか、ヒートはサーフを見て、がた、と座っていた椅子を
揺らした。
「お前、なんつーカッコだよ!」
「は?」
云われたサーフは何のことやら皆目検討がつかず、ヒートの視線と指を指されている箇所を見て漸く思い当たる。腰にタオルを巻いているだけなのだ。
「男同士なんだから関係ないだろうが、」
「そうだけど」
服を着ろ!服を!とサーフに叫ぶ。ヒートにしてみれば驚いた。
これは大変に驚いた。普段は長袖をきっちり着込んでいる上に
憎まれ口を叩くのだ。体躯まで気にしたことなどなかった。
サーフが思っていたよりずっと細く小さかったから驚いたのだ。
改めてまだこの少年が16歳だと思い知る。
「濡れた服を着ろと?」
サーフの反論に、そうだ、そうだった。とヒートは動揺しながらも
自分の服を見繕って貸す。
「どうも」
シャワーどうぞ、と付け足してからサーフはまるで我が家のように
部屋の椅子に腰掛けた(一脚しか無い椅子に、だ)
よろよろとそのままシャワー室へ向かう。
床にはサーフが下着ごと放り出した濡れた衣服があった。
「洗濯するのは俺か・・・」
ヒートの呟きは幸いにもサーフには届かない。


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