苦しかった。
お腹が空いていて、寒くて、少しづつ暖かくなっているであろう季節だったのに、とにかく寒くて、このまま動かなくなってしまうんじゃないかと思って、物陰で震えていたら、その人が来た。

「なんでぇ、野良か、ひでぇ形(なり)だな」
カラコロと下駄を鳴らしてその人が来た。
「行く当てねぇなら、来いよ」
食い物くれぇあんだろ、そう云うので、なんとか立ち上がる。
もうきっと縋れるなら何でもよかったのだ。相手が人間だろうと何でもよかった。
よたよたとその人の後に続く姿を見かねたのか、あまりにもその人から見たら小さかったのか、気付けばその人の腕に収まった。
家族はいないし、守ってくれていた母もいつの間にか消えていた。多分、動かなくなったのだ。
だから一人で生きてきた。「ちいせぇな」そう、呟くその人からすればおれはその人の手の上に乗るほどで今にして思えば確かに小さかったのだろう。

その人の名前は『高杉晋助』と云った。
彼の周りはいつも騒がしい。
連れられた先は船だった。空にも昇れる大きな船だ。
其処には沢山の人間が居て、その人は早速、誰かにおれを預けて洗うように云った。
本当は洗われるなんて嫌だけど、仕方ない。我慢して洗われて、身体をしっかりと拭かれて其処から見えるおれの脚はこんな色だったかと今更ながらに吃驚したりして、とてとてと歩きながら顔を上げればその人だ。
その人はおれにも食べやすいように食べものを解して分けてくれて、水もくれた。
もう夢中で、「ゆっくり食え」という言葉も忘れてそれに噛り付いて、多分皿も齧ってたら、その人が、ふ、と笑みを洩らしたのが分かる。一瞬だったけど。
そうしてお腹がいっぱいになって眠くなったら座布団の上に乗せられて、気持ち良くて、こんなの初めてで、意識が落ちるようにすとん、と眠りに落ちた。
次に目が醒めたらその人は、ぽん、とおれの頭を撫ぜた。
どうやら追い出されないらしい。それがわかっておれは嬉しくなった。
どちらにせよその時、この船は空の上に居たのだけれど、おれにはそれが上手く理解できない。
とにかくその日からおれは、野良を辞めてひとつ所に留まるようになったのだ。



おれのご主人は高杉晋助である。ご主人のことを観察したり護るのもおれの仕事だ。
だってタダで此処に居るのだからそのくらいはして当然だ。おれは恩知らずじゃない。
だからおれはご主人の周りにいる人間をよく観察した。
いつもご飯を持ってくるのはご主人の周りのお世話をしている何人かが順番で来る。きっとそういうのの当番が決まって居るんだろう。だからおれはそいつらとは仲良くした。ご飯大事。
おれの身だしなみに煩いのがこの船の中では珍しい若い人間の雌だった。また子と云う。
また子はおれが綺麗にしているというのに色々手を焼きたがるのであまり好きじゃない。好きじゃないけど人間の雌は色々悩みがあるのか一人で勝手におれに語りかける。
仕方ないので相手をしてやる。ご主人を慕っているのはまた子もそうだからまた子の相手をしてやるくらいの寛容さは必要なのだ。
時々、武市という人間もおれの頭に手を乗せてくる。多分考え事をしている時に多い。本当に時々だからおれはそれも我慢する。おれは優しいのだ。もう一人万斉という人間もいるけれど、そいつは滅多におれをみないのできっと興味が無いんだろう。最初、ご主人がおれを連れてきた時は驚いたみたいだけど。でもまあ概ねそんな感じでおれは船の連中と上手くやっている。
問題は『あれ』だ。
『あれ』なのだ。
初めてご主人が『あれ』をこの船に連れて来た時、おれは隠れた。
だってこわい。
『あれ』は普通じゃない。
化物だ。
『あれ』はこわい。存在が傍にあるだけで肝が冷える。
『あれ』がこわくないなんて嘘だ。皆『あれ』はこわい筈だ。
だって、『あれ』が船に入ってきた瞬間から、おれは全身の毛が逆立った。
『あれ』は悠然と歩いて、おれは物陰に隠れていたから当然だけど、他なんか目もくれずにご主人の元へ向かった。
そして暫くしてからご主人の部屋から出てきて帰っていった。
そういうことが時々あって、それが頻繁になって『あれ』は複数で来ることもあったけど、だいたい一人だ。
『あれ』の名前を神威と云う。

「鈴?」
ご主人の聲におれはぴくりと顔を上げる。
『あれ』はこわいけど、おれを殺すつもりが無いというのがわかって『あれ』がご主人に害を成すつもりも今のところ無いのだとわかったからおれは神威を許容した。
でも見張っている。いつご主人に牙を剥くかわからないからおれがご主人の傍にいないと駄目だ。
時折、すごくこわい時がある。そんなとき神威は『あれ』の本性を剥き出しにする。
大抵ご主人が鼻で哂ってそれを諌める。そしたら神威はそんなにこわくなくなる。そして次の瞬間、何もなかったみたいにご主人にじゃれる。ご主人はやっぱり凄いのだ。
そんなご主人だから神威はご主人に夢中だ。
同じ雄同士の癖に神威はご主人と寝るのが大好きだ。『あれ』は自分の匂いが無くなる前にご主人に会いに来てまた匂いを付ける。
ご主人は自分のものだってアピールだ。『あれ』は化け物だけどそういうのは化け物でもおれたちと変わらない。
おれが居る前で神威が盛りだすと大抵、ご主人の目線がおれに来るので、おれは気を利かせて部屋を出る。
ご主人だって雄だ。視られたくない矜持はあるのだろう。おれは賢いのでそういうのがわかるのだ。
おれが外の廊下にいるといつもご飯を持ってくるご主人の世話係の人間が来て、おれの頭を撫ぜてお菓子をくれる。
おれが賢いからだろう。こわいけれどおれは『あれ』の監視をしてご主人を守っているのだ。
そして今日、神威はこわい『あれ』の癖に、人間のフリをするのが上手だから、人間のことをいっぱい学習したのだと自慢げにご主人に話してる。姿形は人間なのに神威はこわい。なのに人間のフリをして遊んでいるからおれには不思議だ。ご主人に害がなければおれはそれでいいので、下手に威嚇しないようにしてるけど。
そしておれの話だ。
「そ、こういうペット?には鈴を付けるんだろ?だから持ってきた」
ちりん、と音を鳴らすのは鈴だ。
おれは嫌がったけど、神威は容赦なくおれを掴む。
爪を立てようかと思ったけれど、おれはやっぱり『あれ』である神威がこわい。
『あれ』のことを夜兎っていうらしいけど、とにかくこわい。
本能的に竦んでしまって内心「ごめん、ご主人」と謝りながら、抵抗もままならず気付けば神威はおれに鈴を付けていた。
ご主人である高杉は一瞬、それを呆気にとられて見た後にこう云った。
「まあ、悪かねぇや、そういやこいつに名前がなかったな、『鈴』でいいか」
ちりん、と首元の鈴が鳴る。
「鈴、だって良かったねお前」
神威がおれを摘みながら笑顔で云うので、おれは不満げに鼻を鳴らした。
でもご主人がおれを『鈴』って云うならそれでいい。
そういうものだ。ご主人が決めることにはおれは従う。
だからおれは鈴になった。
ちりんちりん、と鈴を鳴らしながらこの船に住む鈴。
ごろごろしながら、日向ぼっこをして、気ままに散歩。時間になったらご飯を貰いにご主人の部屋の前に行く。
時々怖いこともあるけれど、概ね満足な今の生活。
ご主人には感謝してる。
おれはご主人が大好きだ。
だから今日もご主人の傍に寝そべりながら、ご主人を守る為に『あれ』の監視も怠らない。
おれの名前は鈴。
「鈴」とご主人に呼ばれたからおれは勢いよく「わん」と返事した。


03:吾輩は猫ではない。由緒正しき犬である。

お題「猫の鈴」

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