べんべんべん、と三味線の音が鳴る。
月が美しい夜だったので久しく興が乗った。
高杉が吉原の馴染みに登桜するのも随分久しぶりのことだ。
此処最近は宇宙に京にと忙しかった。
攘夷戦争が終わって随分と世間は様変わりしたが、高杉の中ではまだ何も終わっていない。
こうして新たな計画の為に金と兵器を調達するのに走り回っている。
最も他の者の胸の内とて大して変わらないではないか。
高杉が然程苦労しなくても金も人も武器も勝手に集まってくる。
それこそ皆今の世に何も思わぬところが無いということではないか。
結局表向き終わっただけで実のところ何も終わってはいないのだ。
その全てが高杉にとってどうでもよいことではあったが。
ただ、壊すだけの高杉にとっては意味を成さぬこと。
酒を呑みながら月を見上げ、そして三味線を弾く。
馴染みの遊女が慣れた手付きで酒を注ぎ、そして、ふふ、と笑みを零した。
この女も『こっち側』の人間だ。影に日向に、幕府の情報をこうして高杉に褥で洩らす。
そういう女だったが、口が堅く、言葉の間の取り方と茶の淹れる加減が気に入っているのでもう何年もの付き合いになって仕舞っていた。
「どうした?」
いえ、と女が首を振る。
「近頃はお顔色も良くなられ、食も以前より進むご様子、わちきも安心でありんす」
そのようなことを云われ高杉は僅かに驚いた。
確かに今日は用意された膳を既に半分は平らげている。
今日は此処に登桜するまで何も口にしていなかったこともあるが、確かに云われてみればそうだった。
高杉の好むものばかりが乗った膳だ。
胡麻豆腐、長芋の山葵漬け、赤身魚の刺身に鯛のあら炊き、量こそ少ないが鯛飯まで乗った膳である。
その半分ほどを今日は平らげたのだ。
常ならば二、三口食べて終わりだったかとその時高杉は漸くそれを思い出した。
成程、最近また子や万斉が顔色が良いと云って嬉しそうにしていたのはこれだったかと漸く高杉にも思い当る。
そしてその原因を思い出して高杉は少し眉を顰めた。

神威だ。
神威が高杉の周りをうろつく所為で不規則だった食事がいつの間にか規則正しくなって仕舞った。
神威のあの食欲を見れば最初こそ食欲が失せていたが、最近では例にもよって神威と付き合うには『体力』が必要だった為に食事の量が増えたのだろう。云われて見ると不健康だった身体に少しまともな筋肉が戻ってきた気もする。
そもそも夜兎は天人で、宇宙最強と云われる種族だ、出鱈目な強さを持っている分胃袋も半端無い。
それに付き合っていれば少しは食事の量も増えるというもの。
神威と夜を過ごす回数が増えれば増えるほど、こうなっていく。
( つまり、それは俺が其処まであの餓鬼と一緒に居るってぇことか・・・ )
気付かなかった。
いつも一心に高杉を求めるあの餓鬼にかまけるあまり気付かなかった。
だが気付けばそれが不意に腹立たしくもあり、高杉は遊女に投げやりに答える。
「悪食の餓鬼が、近頃あたりをうろつくんでな、そいつの所為だろ」
高杉は素っ気無く云い放ち、それから三味線に手を遣った。
気に入らない、気に入らないが仕方あるまい。
あの餓鬼が高杉の前をちらつくのは事実だ。
そして離れている今でさえ、こうして思い出させる。
( あいつの髪が明るい所為だ )
でなければ、あの青い眼の所為。
そうでなければ、
( 月が明るい所為に違いあるめぇ )

「枯れ果てた荒れ地にただ御一人立たれるような御方だと思っておりました、でも今は違うようで安心したでありんす」

遊女は謡うように云う。

「まるで恋でもなさっているよう」

目を見開いたのは高杉だ。
遊女はしずしずと高杉の杯を酒で満たし、卒の無い動作でこの夜を彩る。
けれども高杉にすればそれどころでは無かった。
そんな莫迦な。
考えたことも無い。考えられる筈も無い。
あの餓鬼が?あの餓鬼と?
そんな莫迦なことがあるか。
これが恋などと馬鹿げたものである筈が無い。
ただ都合がいいだけ、ただ利用するそれだけの為、それだけの為に身体を繋いで、あの餓鬼を手にしている。
それだけだ。
( 本当に? )
それだけなのか?
胸に溜まっていくそれに、遠く離れていても思い出すあの餓鬼に、それが恋などそんな莫迦な。

月が明るい所為だ。
でなければこんなにお前を思い出す筈も無い。
次の瞬間、お前のその手があれば良いなどと、思う筈が無い。
お前が俺の手を掴むことを僅かでも望んでいるなどとそんな筈が無い。
地獄だ。いついかなる場所も地獄。己は地獄の修羅になった。
その地獄に救いは無く、ただ墜ちるだけ。
道連れの相手を探しているだけ。
道連れにするのはお前じゃない。
お前じゃぁない筈だ。
同じ地獄にいるのにまるで違う地獄に立つあいつとは違う。
高杉と神威の道は遠く離れている。
今だけ、今だけ共にしているだけだ。
この女は酷い誤解をしている。
けれども咄嗟に言葉に出ず。
酷くくるしい。
苦しさだけが高杉に去来して何も言葉にすることが出来ない。
そして言葉を失ったまま、高杉は月を見上げ、ただ煙管を燻らせた。


02:月夜話

お題「遊女」

menu /