雨が降ってきたので高杉は少し舌打ちをしながら足早に帰路に着いた。
用があったので久しぶりに地球へ降りたはいいが、生憎一人で訪れていたので足が無い。
少なくとも港の倉庫に待機させている己の小型艇まで赴かなければならなかった。
本来ならこれほど遅くなるつもりも無かったのだが、先方が見せてくれた新型兵器の設計図というのが高杉の関心を引いて予定より長居してしまったのだ。小型艇に待機する者に連絡を入れて迎えを呼ぼうかとも思ったがそれも何処となく面倒だった。
けれども港まで歩けばあと半刻はかかる。
テロリストとして世間に知られた今でも往来を歩くことに躊躇いの無い高杉であったが、この雨足ではその気も失せた。
春の嵐のように風が強いのがいけない。
止む無く何処か軒先を借りようかと目立たない場所の暗がりに高杉が入ろうとした途端、何者かに腕を掴まれた。
「・・・っ」
咄嗟に刀を抜くが、それを「おっと」と軽い聲で交わしたのは近頃では随分見知った相手だ。
「てめぇか・・・」
神威である。
「ウン、地球に居るってきいてさ、降りてきたらこの雨でショ、あんたの部下が傘を届けようとしてたから、俺がそれを留めて迎えに来たんだ」
途中で見付けられて良かったという神威は躊躇いも無く己の傘を高杉に差し出した。
「・・・おい・・・」
「ん?」
なあに?とのんびりとした様子さえ感じさせる神威の物言いに高杉は一瞬聲を荒げかけたがどうにか堪えた。
「何で、傘が一本なんだよ」
そう、傘は神威の番傘一本なのである。
確かに夜兎の傘は通常の傘と目的が違う分大きいが、何故一本なのか、高杉の部下が傘を届けようとしたのならもう一本傘が無いとおかしいのだ。けれども神威は「ああ、これ?」と矢張りのんびりした様子で答えるだけだ。
「だって俺の傘で充分でショ、一つでいいって云ったけど」
つまり相合傘である。
何が悲しくて男二人で相合傘か。
高杉は「チッ」と舌打ちしてから神威の傘を奪おうとするが神威がそれを許さない。
四、五分ほどそれを繰り返したが結局神威が傘を渡すつもりがないとわかると高杉は諦めて神威に傘を持たせることにした。
ちなみに神威が高杉に傘を渡したのならばその足でさっさと傘を射して一人で戻るつもりであったというのは云う間でも無い。
それを察していたのかどうなのかはわからないが、神威は共に一つの傘に入るという目的が達成されて満足しきりだ。
諦めたように高杉はゆっくりと歩きはじめた。
雨足は少し引いてきたものの未だに降っている。
その中を高杉は神威と歩く。
「少し遠回りしようよ」
まるでこの時間を惜しむように神威が云うので高杉は言葉に窮した。
それを肯定と取ったのか神威は向きを変え港の方向ではあるが遠回りの道を選ぶ。
神威が行って仕舞うので結局付き合うしかないのだが、嬉しそうに隣を歩く神威を見ているとそんな葛藤はどうでもよくなった。
時々、神威と居ると息が苦しくなることがある。
今もそうだ。
神威が幸せそうに己の隣を歩くことが、それが情交の伴わない精神的な交わりであればあるほど、神威と時間を共有することが高杉は怖くなる。
( 今更、怖ぇものなんざ・・・ )
怖い筈が無い。これは恐怖では無い。
ではこれはなんだろうとも想う。
神威が高杉に見せる様々なもの、その稚拙な感情が高杉には酷く眩しい。
それが夜兎故の純粋さだとわかっていても、苦しかった。
高杉との距離を測りながら緩やかに緩やかに神威は高杉を侵食した。
夜兎の餓鬼。宇宙最強の戦闘部族である夜兎の中でも一際異才を放つ若き天才。
その神威と夜を過ごすようになったのは最近であるが、時間の短さと反比例するように濃密な関係になっていた。
高杉にとって神威のそれは都合が良い。
利用しているだけだ。
夜兎の力を使う為に処刑される筈だったこの餓鬼を助けて、その代わり己の地獄に手を貸させる。
春雨も高杉にとって以前より格段に居心地が良く成った。見ようによっては神威を担ぎあげることによって高杉は間接的に春雨を乗っ取り始めたと云ってもいい。高杉とて最初はそのつもりでは無かったが最終的に阿呆では無く神威に賭けたのは高杉だ。
ノるかソるかの選択を迫られた時博打を打つのは高杉の性分である。そしてその賭けに高杉は勝った。
結果、阿呆提督は死に、神威は新たに提督の地位に着き、着々と春雨内での影響力を発揮している。
一時的にとはいえ、互いの関係性は蜜月が好ましい。
その延長で神威と身体の関係を持っているのだと高杉は捉えている。そのつもりは無かったが、結果的には神威が求め、それに応じたのは高杉だ。
神威との夜は悪くない。痛みばかりが高杉を苛むこの力ばかりの餓鬼を躾ながらも、神威との夜の交わりは高杉を束の間、地獄から解放した。何も考えずに済む。必死に己を求め、懸命になる餓鬼に足を開いて、上手くいけば高杉は情交の末に意識を飛ばすこともできる。
だから都合が良かった。
眠りなど感じないほどの真っ白に意識を飛ばすような痛みが欲しかったのかもしれない。
それを成せるのが神威だっただけの話だ。
誰でもよかった。都合が良かった、利用しているだけ。
神威でなくても良かった筈だ。
良かった筈なのだ。
誰でも良かった、高杉に夜を与えるのなら誰でも、己の中の獣の牙をどうしようもない憎しみと悲哀を一瞬でも飛ばしてくれるならそれで良かった。
なのに気付いた。夜毎に繰り返されるその遊戯の中で終わった後に、己を抱き締めようとしてその力で殺して仕舞わないか、傷付けてしまわないかと抱き締めようとする手を退くこの子供の姿に。
神威はそういうことを理解しない種だと思っていた。
元来夜兎とはそういう種の筈だ。
ただ力を揮い、強さを求め、全てを壊し、殺す。
直線的な思考を持つ人の形をした獣。それが夜兎の筈だ。
神威はその中でも一際それが強い。
剥き出しの夜兎の本能を持つ男の筈だ。なのにその男が高杉を前に初めて躊躇した。
まるで透明な何かに触れるように、その形を確かめるように、壊さないように酷く注意深く本能を制して高杉を探ろうとする。
これがおかしいことだと早く気付くべきだった。
( 離れるべきだ )
早くしないと、駄目になる。
( 何が? )
わからない、けれども何かが高杉を駄目にする。
この苦しさがきっと高杉の首を絞めるだろう。
神威のその真っ直ぐさが高杉を変えてしまう。
咄嗟に高杉は隣を歩く神威を振り払おうとした。
けれども突然神威が止まったので思わず顔をあげてしまう。
「あ、」
神威が海を指差す。何だ、と高杉が顔を上げれば晴れ間が見える。
海の向こうでは光が射しこんでいた。未だ小雨は降っていたが、その眩しい光の線が海の景色をがらりと変えた。
まるで日の当たらない場所に一条の光が射すようにそれは暗い海を確かに照らしている。
その風景に言葉を告げずにいる高杉に神威は云う。
謡うように優しく、甘いその声で。
( 綺麗だとか、そんなことを )
この餓鬼は云うのだと思っていた。
けれども神威の口から出た言葉は違っている。

「俺は高杉を知るまでこの景色を知らなかった、知らなかったよ」

淡々と語る神威に、高杉こそ崩れ落ちそうになった。
綺麗だという賛辞の言葉では無い、これはそれより余程、重く深い。

( 噫・・・ )

ふと、想う。
己はこの失うばかりの地獄の中で得てしまったのではないかと。
神威という名の子供を。
或いはその子供がもたらした、何かを・・・。
( 馬鹿馬鹿しい )
そう思いながらも、最早それは止められないところまで来てしまったのではないかとそんな予感が己の内によぎった。
( 俺も、知らなかった・・・ )
世界にこんな景色があることなど知りもしなかった。
神威が居なければ或いは永遠に気付かなかった。
湧き上がるものは最早情では無いと云えない。
云える筈も無い。
この子供は確かに高杉の中に昔在った優しくて美しいものの欠片を拾い上げる。
そんなものを知らない筈の子供、けれども神威は見たことも無い無邪気さで、理解しないまま、高杉を揺さぶる。
その感情の在り処を何も知らぬ子供が問う度に己はかつてあった透明で美しいものの残滓を思い出す。
この子供は己の中に何かを残し、そしてまた己もまたこの子供に何かを残してしまっているのではないか。
出遭わなければよかった。
この男を知らなければ良かった。
それは互いを侵食し、透明で美しい何かを形どって仕舞った。
手遅れだ。だが認められない。
己が己である為に高杉はそれを認めるわけにはいかない。

( 俺も、とは云えまい・・・ )
それでも最期に思い出すのはきっとこの景色だろうと、漠然と高杉は想う。

既に高杉は神威を得て仕舞った。
どれほど否定しても最早これだけは否定できまい。
失うばかりの生の中で幸か不幸か、己はたったひとつを得て仕舞ったのだ。


20:暗礁を射す光

お題「幸せの音」

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