その日、高杉は神威を引っ捕まえるとそのまま風呂場へ直行した。
戦場から帰ってきたばかりだという神威の姿を見れば誰しも顔を顰める。つまり血塗れなのだ。そんな状態のまま神威は高杉の船に颯爽といつものようにやってきて「やあ」と手を上げたから堪ったものでは無い。高杉は吸いかけの煙管を煙草盆に戻し、それから神威が畳に上がる前に神威の首根っこを掴み、擦れ違う部下達にぎょ、とした顔をされながらも神威を浴室に服ごと放り投げた。
「ごめん、洗ってくる時間も惜しくてさ」
「どうせ俺が洗うと思ってたンだろ」
呆れたように高杉が神威を見遣れば「ばれた?」と神威が笑みを浮かべるのだからこの餓鬼は確信犯なのである。
高杉が溜息を零し、それからやや重たくなった前髪を掻きあげ白襷を着物に巻き、神威の衣服の上から湯をかけた。
高杉の旗艦は高杉達がいつでも入れるようにと湯が張られているので適温だ。こればかりは有り難いと高杉は思う。攘夷戦争中などはきっと今の神威のように高杉も汚かったに違いないのだ。あの戦争は多くを失った。失った者達が今、高杉の元に集って鬼兵隊を作っている。それをぼんやり考えながらも高杉は適温である湯を神威に掛けながら「服はてめぇで洗え」と促した。神威は頷き、血に塗れた上に湯を吸って重たくなった衣服を脱ぎ捨て流される湯で濯ぐ。そうすれば透明な湯が一気に黒ずんだ色に変化するのだから確かに酷く汚れているのだろう。実に十日ほど神威は清潔さとは無縁だ。泥と煤と血の雨の中ただ戦い続けた。我に返れば何も無い荒野と焼け跡ばかりで、人影など何処にも無い。茫然と神威が立ち尽くしていたところで遠くからちらほらと阿伏兎や部下達が見えたのでそこで漸く神威はこの星のものは殆ど滅したのだと知ったのだ。
弱い相手であったが数が多かった。それだけだ。まるでシューティングゲームで無限弾を入手したまま敵を落している気分だった。
それも嫌いではない。時々ならいい。でも終わった後の空虚な感覚はいつまでもあった。空虚・・・そうだ何も無い。
何も此処には無い。戦闘の高揚も感傷も、強敵と遣りあったのでもなければ己が死にかけたのでも無い、神威達はただ破壊しただ殺した。神威はふらふらと空虚なまま旗艦へ戻り、そのまま高杉が居るという星系まで航行したのだ。
これが神威の不機嫌なのかどうか、神威にはわからない。何も無いのだ。何の感慨も無い。つまらないでも無い、沢山殺しすぎただけ、それだけ。後になれば、ああ、あれはつまらなかったなという感想も抱けるだろうが、今はそうでも無かった。
空虚。何も無い、それだけ。阿伏兎も神威のそんな様子に判断が付きかねたからこそ神威が高杉の居場所をとオーダーした時に無言
で従ったのだろう。いつもなら着替えをしおざなりにでもしてシャワーを浴びて高杉の元へ向かう神威が血塗れのまま歩けば染みができるような姿のまま高杉の元へ向かうのにも阿伏兎は何も云わなかった。
「酷ぇな」
「うん、そのままで来たからね」
神威が衣服と靴を濯ぎながら答える。神威の衣服の汚れは黒から薄い茶になっていた。血の染みは落ちにくい。
ある程度神威に濯がせたらまた子にでも頼まなければなるまい、と高杉は息を吐き、それから最大の目的である神威の髪に取り掛かった。
神威は髪の手入れだけは駄目だ。少し目を離せば軋むほどに痛ませる。きちんと手入れをすれば驚くほど毛並みが良いのにと場違いなことを高杉は思う。何せ顔は人形のように整っているのだ。何かの冗談かのような面立ちである。高杉達とは違う傷一つ無い白磁の肌に蒼の眼、宝石のような取り合わせに珊瑚色の髪だ。夜兎が皆美しいわけでは無いがとりわけ神威は際立っている。何処に居ても存在が際立つ男なのだ。少年のような危うさを備えているのもまた性質が悪かった。神威を見れば皆舐めてかかるがそうすれば最後一巻の終わりだ。凶暴で凶悪な戦闘本能の塊である獣は獲物を一瞬で食らい尽くす。それを目の当たりにしたことがあるだけに高杉はこの子供の持つそういったアンバランスさに喉を鳴らした。
また子が使っているという普段は使わない頭髪用の石鹸を手にし、それから一度流すように全体に手を入れたあと湯をかける。それからまた何度か白い泡立ちが出来るまで高杉は神威の髪を撫ぜるように洗う。
ゆっくりと神威の髪が泡立ってきたのを確認して高杉は注意深くその頭皮を撫ぜた。
それに喉を鳴らしたのは神威だ。大型の肉食獣が時折喉を鳴らすように、その心地良さに目を閉じた。

( ああ、これだ )
息を吐くような感じ。
身体の隅々まで温度を取り戻し生き返る。
その感覚は神威が今まで感じたことの無いものだ。
高杉は神威が汚れているからといつも髪を手入れする。思えば高杉はよく神威の髪に触れた。
一度高杉がしてくれるように自分で手入れしてみようと思いやったことがある。結局、神威の拙い手入れでは気に入らなかったのか高杉が洗い直してからは自分で手入れするのを神威はやめた。どだい己にそんなこと向かないのだ。汚れなど濡らして流せばいいと思っている程度だ。高杉に逢う時だけは気を遣っているが、そもそも夜兎は高杉達より清潔でないと思う。悪環境で戦っている方が圧倒的に多い。
けれども高杉は別だ。高杉に指通りを確かめるように優しく髪に触れられるのがトクベツだと認識したのはいつからだろう。
神威にとって高杉への興味がいつの間にかのめり込むほどに傾倒しているように思う。だから阿伏兎はいつも高杉との関係に良い顔をしないのだ。大人のケイケンというやつなのだろう。それでも神威は高杉を求めることが止められない。
じわじわと、いつも殺意と弾むような嬉しさと、そして何処までも殺して仕舞いたい程、衝動を覚えながらも求めたいという激しい欲がない交ぜになった感情。その感情が何なのか神威にはわからない、だからこうして高杉と己の間にあるものが何なのか測るように神威は高杉の前に立つ。そしてこの男を探るのだ。いつも真実をはぐらかすこの賢い男への答えを探す為に。高杉の指が神威に触れる。それだけで電撃が奔ったように何もかもが吹き飛ぶ。
わからない。わからない、でも・・・。

( これがあれば俺は、 )

まるで空っぽの器の中に水が増えていくように満たされる。空虚だったものの中に何かが満たされる。
その感覚に神威は慄えた。
いつもそれが何か神威にはわからない。わかりもしない。
でも、と想う。でもこれがあれば己は満たされるのだ。
戦って闘って戦って尚枯渇する渇きが、激しい飢えがたったこれだけのことで満たされる。
それが何なのか知らない。神威にはわからない。でも此処にある。
或いは満たされると云うこの感覚こそ己と高杉の間にある何かの答えなのかもしれなかった。
「目ぇつぶってろ」
神威は云われた通り目を閉じる。
そうすれば高杉が神威に湯をかけた。
そのままもう一度丁寧に高杉の指が神威の髪に絡む。
手櫛で通りが良くなるまで、丁寧に。
それが心地良くて高杉に身を任せるとふと襲い来る眠気にそういえば随分疲れていた、と神威はぼんやり思った。
「高杉、」
ねむい、と神威が呟けば高杉の指が殊更優しくなったように感じて、うとうとと湯の暖かさから眠気の方が勝って仕舞う。
背後で笑みを漏らすような高杉の吐息が聴こえるのにもう瞼が抗えない。
「・・・寝やがった」
眠って仕舞った神威を呆れたように見下ろしながらも高杉は指の動きを止めない。
その細い珊瑚色の髪を丁寧に洗えばさらさらと零れるような絹糸のようでそれに触れるのは悪くないと思っている。
だから高杉が髪を手入れした後、大抵神威は高杉の旗艦に居る間髪を下ろすか編むのではなく一つに束ねていることが多い。
こんな餓鬼と寝るのは癪だがそのさらさらとした髪に褥で触れるのは恐らく気に入っているのだ。
眠って仕舞った姿はまるで猛獣の寝姿だな、と高杉は胸の内で思いながらも髪を洗った。
そして流す為に神威を起こそうとして不意に悪戯心が湧く。
一瞬思巡したが、湯を桶で掬ってそれからそれを一気に神威にかけた。

「うわっぷ・・・!」
かけられて聲を上げたのは神威だ。
それはそうである。うとうとしていたら突然の仕打ちだ。
高杉だ。抗議の聲を上げようとしたが「はははっ」と弾けたように響く笑い声に目を瞠った。
「酷いや・・・」
けれども滅多に聴かない高杉の笑い声に、その声が聴けるのならこれも悪くないかと神威も声をあげて笑った。


05:満たされる

お題「猛獣使い」

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