※現代パラレル。神威=大学生。高杉=手紙の相手。


課題というのは面倒だ。
神威はやや重い溜息を吐きながら指定された本を開いた。
そもそも自分は大学には向いていないのだ。けれども若い頃碌に勉強する間がなかったという父はそうは思っていなかったらしく何かしら思うところもあったのか頑として神威の就職を認めずに進学を強く勧めた。
かと云って大して己の頭の出来が良いとは思っていない神威である。偏差値底辺の高校から進学できる大学など更に限られていて、漸く滑り込みで願書を提出し私学の地方大学へと入学を決めた。
しかも文系の学科だ。理由は至極簡単で数学などの理系よりまだ文系の方がマシだと思ったからの一点にすぎない。
既に定員割れをしているような過疎化している学科だ。考古学科だけはかろうじて実績があるのか、有名らしく施設も綺麗で人気もあるらしかったが、神威のいる学科はそうではない。未だにいつ建てられたのか明治だかそのあたりに作られて大して手入れもされていないような寂びれた場所に教室が集中している。これなら小学校の方が余程マシだと思うような設備だ。地方なので他に遊べる場所があるわけでもないし、精々ぽんと道に建っているガソリンスタンドでのバイトに精を出すくらいで後は大学と、これもいつ建てられたのかわからないほど古びた学生寮の往復だけの何の変化も無い退屈な日々だ。
せめて夏休みには思いきり遠くへ足を運んで遊んでやろうと今のうちにせっせとバイトをするだけの生活。
そういう生活に既に神威はうんざりしていた。
うんざりしているが早々に辞めて仕舞えばあの頑固な父との衝突は避けられない。
その面倒を思うと神威は再び重い溜息を吐きながらレポートを作成すべくそれに目を通した。

「あり・・・?」
先日作成した筈のレポートが無い。
神威の部屋にパソコンは無い。無いから大学で作成して、メールで添付する。
そのデータが無いのだ。
「やっば・・・!」
そして慌ててIDを入力してメールを確認すればクラッシュだ。
データが完全に文字化けして仕舞っていてこれでは読めたものでは無い。
せめて他にデータをコピーしておけば良かったがこれも神威が甘かった。送ったのだからと履歴を確認せずに削除して仕舞ったのだ。
つまり、もう既にデータは無く、手元にあるのは文字化けしたデータだけ・・・再提出という担当教授の聲に神威はがくりと項垂れて教室を出た。
本は図書室で借りたものだ。既に昨日返して仕舞った。
レポートを纏める際に草稿とは名ばかりのメモを走り書きで作成した筈だったがどうやらそれも捨てて仕舞ったらしい。
手元のレポート用紙を入れたファイルにも入っていないことから絶望的だろう。
ああ、面倒くさい、と思いながら神威は不機嫌な顔で図書室へ足を向けた。
此処も古い図書室だ。今時の明るい雰囲気の白い壁なんてものとは程遠く、かろうじて電子化はされているけれど建物自体がぎしぎし鳴りそうなくらい薄暗くて陰気な場所だ。
三階層で、中二階や地下階もあることから入り組み方が複雑で迷路のような場所を神威は慣れた様子で目的の本のある書架まで辿り着く。先日借りたばかりなのだから場所は覚えている。
そして再びその本を手にしたときに気付いた。
「あった・・・」
挟まっているものがある。
開いて見ればそれは神威が書いた草稿のメモだ。
おざなりな文字でこの本における思想哲学の解釈と歴史を書き個人的な感想としてはまるで理解できないとまで付け加えたそれ。
「助かった・・・」
何にせよこれで助かった。また一から調べ直すことをしなくても済む。
何気なく神威がぱらぱらとその本に挟まっていた草稿を見るとクリップがされていることに気付いた。
「何だ・・・?」
そう、クリップだ。こんなもの神威はしていなかった筈だ。
思わずそれを裏返して見る。
「メモ?」
真っ白い用紙に青いペンで書かれた文字がある。
とても綺麗な文字だ。まるで何かのお手本のようなくらい綺麗な字。
其処には神威の草稿に対しての別視点の解釈と不十分な部分を丁寧に解説した文が添えられていた。
そして個人的な感想・・・神威の理解できないと記した部分に一言ある。
「意見としては同感であるが著者の歴史的背景を鑑みるに再考の余地有り・・・か・・・」
名前は無い。そのメモ用紙を裏返して見ても署名は無かった。
神威のこの草稿を見つけた誰かが書き記したものだろう。思わず注釈を入れて仕舞うほど酷い内容だったのだろうか。
神威はその時何も考えずにそれを持ち帰り、そしてレポートを再び作成した。
そして後日云われたそのレポートの評価に神威は眼を瞠る。
やる気のない教授は何を出してもぎりぎりの評価を呉れる。どうせ底辺の大学だ。まして私学なのだからそんなものだ。
けれども中には厳しい教授もいる。その教授からいつも再提出をくらっている神威の出したレポートが好評価を受けた。
思わず神威は何も考えず図書室の本に向かった。あの本を開いても何も挟まっていない。
だからその日神威は其処にメモを挟んだ。
『有難う、助かった』と汚い文字で書いたメモを挟んだ。
見てくれなくてもいい、誰かが落書きだと思って捨てるのでもいい。ただそうしたかったから神威はそうしたのだ。

すると不思議なことが起こった。
翌日図書室に向かっても神威のメモは本に挟まったままだった。
自嘲気味に哂いながら神威はその本を書棚に戻す。
そしてその次の日もなんとなく気になって他の本を戻すついでに図書室に寄った。
「返事だ・・・」
メモが挟まっている。
神威の挟んだメモは無く、真白い四角いメモに、青いペンで、とても綺麗な字で『どういたしまして』と。
そう返事があった。
そこからだ。神威は何か課題がある度にメモに書いた。便利なお助けメモ的に質問を書いた。
すると返事がある。翌日か翌々日か、遅くても三日以内に返事が来た。いつもそれは神威が詰まっている箇所への根本的な理解を柔らかく紐解いてくれた。多分相手は男だろうと思う。古書に詳しい。相手の得意分野が近代文学よりも古典なのもわかってきた。
そんなやりとりをする間に神威はそれが楽しくなってきた。いつの間にか文学という分野にのめり込むように、その話題についていきたくて、いつもバイトの無い日や空き時間があれば図書室へ入り浸る。
ガソリンスタンドでバイトして大学へ行って汚い寮に帰って寝るだけの日々が一転した。
「今時文通って・・・」
自分でも莫迦らしいと思う。電子ツールは山とあるのに神威は自分のメールアドレスやその他のIDをそのメモに記載しなかった。
だからメールアドレスどころかお互いの名前すらしらない。
けれどもメモだけが溜まっていく。
そのうち課題だけではなく他の話題もするようになった。
今日は何があっただとか、あの教授はどうだとか、台風なのにバイトでずぶ濡れになったとか。
それに対してもいちいち返答があった。相手も退屈していたのかもしれない。
相手のことは一切書いていないのに、神威の記したことへの感想はあった。
それが楽しくて神威はいつの間にか図書室の常連だ。
この遣り取りが愉しくて神威は相手が誰かを探らないでいる。けれどもその遣り取りももう二ヶ月になってもうじき夏休みだ。
勿論夏は遠くに旅行でもしようと思っていたから此処にはいない。
けれども自分が夏に此処に居なければこのメモは終わるんじゃないか、この遣り取りは魔法の様に無くなって仕舞うんじゃないかと神威はそんな予感がした。
秋にまた学校が始まって図書室に来ても、もうこのメモは無いんじゃないかと、そんな気がした。

夏休み。
待ちに待った筈のそれ。
こんな田舎で、何も無くて、地元の奴じゃなかったら皆実家に帰って、遊びに行くにも一時間に二本しか出ない電車に乗る為に一時間に一本しかないバスに乗る様な場所だ。
さっさと出たかった筈だ。
周りには旧い大学と、学生寮とぽつんとあるガソリンスタンドしかない田舎だ。
コンビニなんて無いし、服だって気軽に買えない、カフェも無ければカラオケなんて場末のスナックみたいな場所の二階にあるような場所だ。
なのに神威は帰らなかった。
この図書室にいた。
図書室で適当な本を取って、受付の男に渡す。
偶に見る男だ。外部からの派遣だかなんだかそんな記載のネームプレートを着けている。
その日は運悪く貸出システムのメンテナンスの日だった。
だから手書きで本のタイトルと著者名とバーコードナンバーを書き出している。
そもそも夏休みで利用者は殆どいないのだからそんな日こそメンテナンスだろう。
それも頷ける。神威はそれをぼんやり眺めながらふと男の手元を見た。
「あんた・・・」
青いインクだ。万年筆を握る男のペン先からは青いインクで記されている。
綺麗な字で、本当に何かのお手本みたいな綺麗な字で記したタイトルと著者名・・・。
「司書だったのか・・・」
男はにやりと笑い、神威を見た。
黒い髪の良く見れば驚くほど顔の整った男だ。
「いつ気付くかと思ってたんだがな」
「高杉・・・」
ネームプレートを見れば高杉と記されている。
高杉は丁寧に神威の借りた本を差し出した。神威が本を受け取れば微かに煙草の香りがする。
「夏は遠くへ行くんじゃなかったのか」
以前メモに書いていたことだ。だからバイトをしているのだと、そう神威は書いた。
なのに神威は何処へも行かなかった。行けなかった。
「行ったらなんかあんたが次の学期にはいない気がして」
「それも正解だな、元々こっちの大学へは別の手伝いで来ている。司書の資格は持っているがこちらはついでというかたまたま業務を手伝っただけで本業じゃない」
「何してる人なの?」
「色々、だ。教授の手伝いとか共同研究とか殆どが研究資料全般の発掘とまとめだが、根本的な専門は修辞学になる」
「それで俺のメモを見つけて返事を?」
「ありゃあ酷い内容だった」
高杉の感想に神威は笑って仕舞った。
「まあ、わかるよ、俺そういうの苦手だし」
「だろうな、でも面白かった」
「本当?」
「素人の解釈ってのは面白ぇもんだ。こっちは凝り固まった哲学やら何やらで解釈しちまうが、そういうのがわからない人間の解釈ってのは目新しいし、あながち間違いってわけでもない」
「ふうん、そういうもの?」
「そういうものだ」
見れば見る程綺麗な男だ。神威もよく他人にそう称されることがあったが、高杉のそれは神威のものとは違う。
惹きつけられるものがある。文字だけではない。話せば尚のこと、この男には得難い何かがある。

「ねぇ、下の名前教えてよ、あんただけ俺の名前知ってるなんてフェアじゃない」
そう、しかも高杉は最初から神威を知っていた。あの遣り取りをしながらも本を借りる神威を高杉は受付で貸出作業をしていたのだ。
何食わぬ顔で居たこの男のことを思うと当然の抗議である。
「ずるいよ」
そう神威が云えば、高杉は聲を上げて笑った。
幸い今は誰もいない。メンテナンスをしている日に誰が来るものか。
「あんたの事、もっと教えてよ」

そう問えば高杉は笑みを含ませ、それから珈琲を飲むかと神威を誘った。



06:午後のティータイムに。

お題「落書き」

menu /