それからぴたりと神威が高杉の所へ通うのを止めた。
何の気紛れか神威は高杉に会うのを止めて仕舞った。
それに喜んだのは阿伏兎や万斉である。彼等の逢瀬は一時的なものなら結束が強くなりよかったが、長期的に続いて良いものでは無い。
まして阿伏兎はそれが遊びでないとわかっていたからこそ神威と高杉の関係に良い顔はしなかった。
漸く熱が収まったのかと安心したのか、或いは高杉に今度こそ引導を渡されたのだと誤解しているのか阿伏兎は別の任務を大量に入れて仕舞っている。
それを見つめながらも神威は沈黙を保っていた。阿伏兎の邪推に神威は肯定も否定もしなかった。
今神威の心は凪のように静かになっている。
それを見て不気味に思ったのは阿伏兎だ。これは嵐の前の静けさなのではないかとそんな予感に頭を振った。
「団長?なんだ?シャワーでも浴びたのか?」
神威は頭から水を滴らせている。珍しく髪を洗ったらしかった。
普段から手入れをすればそれなりに見目も良いのだから悪いことでは無い。神威は髪を拭き、器用に三つ編みをしてから、阿伏兎に向き直った。

「俺、決めたよ」
「決めたぁ?何云ってんだ?団長、もう船出すぞ」
「お前だけで行ってきなよ、俺は用がある」
「用があるって・・・」
「答えが出たんだよ」
「ついに殺すのかぁ?」
背中から飛んでくる呑気な言葉に神威は手を上げながら艦橋に繋がれた階段を下った。
もう一月、神威は高杉に会ってはいない。仕事上の遣り取りがあっても別に神威がいなくても出来ることだ。
だから一月という時間神威は高杉に接触しなかった。
肉体的には一番盛りであるというのに神威は高杉と交われば交わるほど、溺れれば溺れるほどに冷静になっていった。

高杉晋助を神威は殺したい。けれども殺せない。知りたい、あの男の底が神威は知りたい。
手にしたい、この上なく神威は高杉という男を欲している。
欲してどうしたいのか神威には長らく理解できなかった。高杉を手にして、戦って殺したいのか、或いは食べて仕舞いたいのか、その血を啜りたいのか、それとも存分に犯せばいいのか。高杉を奪い全てから遠ざけて己のものに囲ってしまえばいいとさえ思う。けれどもそのどれもが違うのだ。だから神威は高杉を扱い兼ねていた。ずっと高杉を観察するように眺めた。そして神威は気付いた。或いはあの時高杉が神威に口付けなどしなければ神威は永遠に気付かなかったに違いないのだ。けれども気付いて仕舞った。それが恋だと神威は識って仕舞った。
身体のままに高杉を奪っても高杉は神威のものにはならない。
高杉は神威を必要としていない。戦力的には宛てにしているであろう。けれどもそれもあれば良いという程度のもので、高杉は神威がいなくても彼の世界を壊すのだろう。それで死んでも高杉はかまわないとさえ思っている。否、もうとっくに高杉の魂なんてものは死んで仕舞っているのかもしれない。残骸しか残っていないのだ。残ったのは憎しみと悲しみ。数えきれないほどの悲哀。
高杉はその地獄で果てたい。何かの約束か或いは呪いに捕らわれるように高杉は過去に縛られている。
高杉は未来を見ない。過去しか見ていない男だ。
それが神威にはわからない。ずっと理解できなかった。理解できなくて良かった筈だ。
簡単な相手、ただの協力関係。それだけで良かった筈なのに、それでも高杉に惹かれるままに手を伸ばしたのは神威だ。
そうしてあらゆる感情が神威に芽生えた。
嫉妬や憎しみ、そんな感情さえ今の神威には理解できる。
そして己が高杉に望んでいるものの形が神威には少しづつ見えてきた気がしていた。
神威が高杉に手を伸ばす、そうすると高杉は一瞬だけ、神威に何かを返すことがあった。
一瞬の口付け。高杉からされる一瞬の尊いそれ。
その一瞬の真実に隠されたものがあるのだと神威は本能で悟った。
その真実が何かを神威は知りたくて高杉を欲しているのだ。
或いはそれが何なのかわかれば高杉を手にできるのだろうとさえ思う。

「ごめんね、高杉ちょっと時間かかっちゃった」
突如艦に来訪した神威に僅かに驚いてみせたのは高杉だ。
神威はもう来る筈が無いと思っていたような顔をしている。
それに神威は笑って仕舞った。
高杉はずるい男だ。神威が望む答えを本当は知っていたくせにそれから眼を背けるずるい大人。
けれどもそれでいいのだと神威は思う。教えられても神威にはきっと理解できなかっただろう。神威はその形を自ら指で撫ぞりながら何なのかを探った。他の誰に云われるでもなく、己で答えを探し続けた。
だからこそ神威と高杉は上手く行ったのだとも云える。神威は決して真理を高杉に問わなかった。
その想いに誠実であるが故に高杉に答えを求めなかった。求めなかったからこそ高杉は神威を許容した。
薄い氷の上を歩くような関係だった。それほどに神威と高杉は遠かった。それなのに神威はその薄氷の上を歩いた。
歩きつづけてついに辿り着いた。そして今此処に、この場所に神威は高杉の前に立っている。
「あんた、いつも俺が其処に辿りつこうとするとはぐらかしたよね」
「何の、ことだ・・・」
高杉が僅かに後ろに下がる。神威が詰め寄る形になり、無礼な、と高杉の周りにいたものが刀を抜こうとするがそれも神威の知った事では無い。神威にとって今世界にはふたりだ。
己と高杉の二人しかいない。
そう、最初から神威と高杉の間には自分達二人しかいない。
最初からふたりだけだった。
夜兎は常に渇きを覚える種族だ。
満たされない。満たされたくて闘争に身を浸す。
全ては心を満たす為だ。
かつての師であった鳳仙もそうであったし恐らく神威の父もそうだ。多くの夜兎は己を満たす為に闘っている。
それは血の飢えであったり、或いは心の飢えであったのだろう。
その答えを探す為に皆、戦いに身を投じる。けれども神威は分かって仕舞った。その飢えの根源がわかって仕舞った。

「この感情が俺には何なのかよくわからない。何が普通で何が普通でないのかもわからない。俺はあんたとこうなるとは思ってもみなかったし、あんたが俺を必要とはしていないのもわかってる。どれだけ手を伸ばしてもあんたが俺の手を掴まないこともわかってる。わかっているんだ高杉、でも心だけは偽れない、俺は俺の全身全霊をもってあんたにしかこの想いは向けられない。だから多分、こうだと思うんだ」
「帰れよ、神威、手前に云うことなんざねぇ」
けれども神威は高杉に手を伸ばす。身を捩ろうとして壁際まで追い詰められた高杉の手を神威は難なく掴んだ。
「餓鬼が・・・」
「餓鬼で良いよ、高杉、それでいいんだ」
この手はこんなに大きかったか。
神威の手が高杉を掴む。緩く掴んでいる筈なのに、高杉にはそれをびくとも動かせない。

「握り返してくれなくていい、握り返してくれとは云わない。代わりに俺があんたの手を掴む。」

一笑できればよかった。
一瞬でも欺瞞に満ちた風に装えれば良かった。
けれども高杉にはそれは出来なかった。
そうするにはあまりにも互いに真っ直ぐすぎた。
その想いに誠実すぎた。
今更だ。何もかも今更だ。
汚れきった己の手には余るものだ。
今更なのに僅かに残された情に絆された無様に高杉は我に返った。
この手を振り払わなければならない。
或いは出遭わなければよかった。
けれども遅い。
高杉に真っ直ぐに向けられたその感情が何なのか、高杉にはわかって仕舞った。
真っ直ぐに己を見据えるその眼はまるで雲一つないような青空のようだ。
夜の闇を生きている筈なのに、その眼は何処までも青く、それは高杉が失って仕舞ったものを映していく。
それが眩しくて高杉は眼を細めた。
振り払うように神威の手を避ける。
避けようとするが、それも出来なかった。

「殺したいのだと思ってた。俺があんたを殺せば終わる事だと思ってた。でも違った。俺は答えに辿り着いたよ、高杉」
「離せよ、」
「離さない、離すもんか、莫迦な事だって俺だってわかってる、多分俺が今からあんたに云うことはきっと莫迦莫迦しくて本当、笑えない、でも俺はあんたに出遭ったんだ」

出遭って仕舞ったのだと、神威は云う。
遅かった。
何もかも今更だ。
なのに、神威は高杉の手を掴む。
はっと、高杉が顔を上げた時に、その蒼穹が高杉を捕えた。
聴きたくない、わかりたくもない、それでも高杉はその手を振り払うことなど出来はしない。
まるで胸の奥にあった痞えが取れるように、神威は気付いて仕舞った。
その奥底にあったものが漸く何かわかった。
晴れ晴れとした顔で、全てを悟って仕舞ったように。
高杉が云うな、と言葉を紡ぐ前に神威は云って仕舞う。
その眼に空を湛えながら、云って仕舞う。


「高杉、俺はあんたを幸せにしたい」


慄える、離せない。崩れる。
堕ちそうになる。
( 噫、駄目だ )
或いは最初から堕ちていたのか、気付かずに互いに堕ちていた。
立ち尽くすしかない己の無様に眩暈がする。雲が晴れるように神威はそれが愛だと理解して仕舞った。
真っ直ぐに互いに向くその感情の答えが愛だと知って仕舞った。悪党が二人、莫迦莫迦しくて笑えもしない。
笑えもしないのに、その透明な直線が互いを繋ぐ。かつて捨て去った過去に在った筈の高杉の中の感情を神威は揺さぶり、そしてその感情を神威はひとつづつ理解して仕舞った。こんな餓鬼が、神威がその答えに気付くまいと思っていた。けれども神威は答えを探し続け、そして辿り着いた。この地獄の中で、殺すことしかしらない夜の種族が、当たり前すぎて、至極莫迦莫迦しく、決して理解しないであろうことを知り、望んでしまった。幸せにしたいなんて莫迦げてる。幸せなど何処にも無い。そんなものは疾うの昔に失くして仕舞った。それなのに、笑えない。慄えるばかりで、言葉も出ない。
ああ、お前になど遭わなければよかった。
お前などに情など芽生えなければ良かった。
高杉にはこの子供にもう何も返せない。最初から渡せるものなど何も無い。
わかっていた筈だ。何も無い空っぽの己に渡せるものなど無いではないか。
けれども神威はその手を離さないという。握り返さなくてもいいという。
好きだ、と、愛していると云えたのなら良かったのか。
そんな安っぽい言葉で誤魔化せれば良かった。
汚濁と復讐、そして悲哀の中で、たった一つ残った心の欠片をこの子供に明かさなければ良かった。
あの最初の口付けが、高杉が神威に施した一瞬のそれが初恋だというのなら、叶いはしない。
それを叶える資格など己にある筈も無い。
( それでも、離せない )
それがどれほど愚かなことかとわかっていながら気付けばもう遅く、昇ることは叶わず、上も地獄、その下も地獄。一人で逝く筈だった。高杉に在るのは死と闇ばかりだ。なのに神威は見付けて仕舞った。高杉が見せた一瞬の真実の答えに辿り着いて仕舞った。緩やかなその落下に呑まれるように、それでも神威はこの手を離さないのだろう。そして己はその手を振り払えないのだと、泣きたくなった。


惚れた晴れた

読了有難う御座いました。

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