それが恋だと識ったのはその時だった。
初めての恋だった。

神威はじ、と高杉を見る。高杉は神威の視線に気付いているくせ、気にした風もなく神威を空気のように扱った。実際彼には仕事があったしそれは神威にはよくわからない、つまり頭を使う類の仕事だ。
突然出掛けると云って高杉が地上に降りたのは昨夜のことだ。
何人かの供を連れて出て行く高杉に着いて行ったのは神威である。だから文句を云える筋では無いが退屈ではあった。こんなことなら今頃青筋を立てて任務をこなしているであろう阿伏兎に着いて行った方が良かったのかもしれない。
けれども神威はこの高杉が居る狭い畳の部屋から出られない。否、いつでもこの狭い部屋から出ることは可能なのだ。ただ立ち上がって部屋を出ればいい。けれども神威はその気になれなかった。高杉から離れるのが嫌だった。高杉の匂いを感じられる距離に居ることの方が阿伏兎と共に好きなだけ力を奮うことよりも今の神威にとっては魅力的だったのだ。
その感情が何なのか未だに神威はわかりかねている。ただ、息を潜めてその男の全てを見つめることが今の神威の目的だった。
中身は肉食獣であったが外見だけならまるで猫のような神威のそれはそういった理由で高杉の傍にある。
高杉はさらさらと筆で何かを認めて控えている男に書類を渡した。そして傍らの煙管箱を引き寄せ、コンコン、と音を立てながら灰を落とす。そして新たに葉を詰めながら火を点した。そして煙をゆっくりと吸い込み吐き出す。白い煙は窓から陽が沈みかけた外へと消えていった。
「夜になる」
夜になる、と高杉が云う。
そう云われて初めて高杉は自分に話しかけているのだと神威は気付いた。
「あまり長く放っておくから話し方を忘れちゃったよ」
皮肉を込めて云えば素直に拗ねてみせたのが気に入ったのか高杉は笑みを浮かべた。
「それは済まなかったな」
やや不貞腐れて神威が畳に頬を押し付けて寝転んでいると、本当に珍しくどういう気が向いたのか高杉が神威の傍へ寄ってきた。
「何?何か俺にお願い事?」
「天下の提督にお願いたぁ後が怖ぇな」
いくらかかるんだか、と揶揄しながら高杉は神威の傍らで煙管を吹かした。
「あんたのお願いならお金なんていらないよ」
「どうせ俺と殺り合いたいとかだろ」
「そうだね、それも悪くない、でもセックスでもいいよ」
セックス、と神威が云えばもう何度目か分からない神威の誘いに高杉はうんざりとした顔をした。
「俺が嫌?」
「嫌じゃねぇ」
「じゃあ、童貞が駄目なんだ」
「そんなところだ」
「こんなことなら童貞棄てておくんだった」
「今からでも棄てりゃいい」
「今は高杉以外とするなんて考えられない、あんたがいい」
駄々を捏ねる神威を高杉は、ふ、と眩しそうな目で見る。
それが神威には癪に障った。
いつもそうだ。高杉は神威と同じじゃない。同じ夜に生きる癖に、同じ地獄に居る癖に、神威と高杉は同じじゃない。種族も歳も生き方もまるで違う。夜兎であることを恨んだことは一度も無い、この殺戮しかない生き方に後悔も無い、けれども神威は初めてそれを歯痒く思った。高杉の何もかもに神威は追いつけない、いくら速く走れても、いくら力が強くても高杉と同じ時間と同じ空間を共有しても高杉と一緒にはなれない。
同じがいい、高杉が夜兎であればもっと理論は簡単だった。力で屈服させればいい、けれども高杉は侍だ。身体を手に入れることは出来ても高杉の全てを手に入れることなど出来はしない。
だから神威は力で高杉を手に入れようとはしない。阿伏兎はさっさとそうした方がいいと顔を顰めるが、神威が欲しいのは有りの侭の高杉だ、だからこの戦闘種族と云われる夜兎でとびきり強い神威でさえも手が出せない。ただセックスしたいと駄々を捏ねる子供に成り下がる。
それが歯痒い。みっともないとは思わないが、いつまでたっても高杉に追いつけないのは癪だった。
神威がこれだけ高杉に心を砕いても高杉は振り向かない。
歯噛みしている神威が面白いのか高杉は機嫌が良さそうに神威の髪を撫ぜた。
心地良い撫ぜ方だ。高杉という男はつくづく人の心に入り込むのが上手い男だ。
子供扱いされているようでこれも癪だったが、気持ちよかったので神威は高杉のするままにした。
「どうせお前も夜にならないと出られないだろう」
高杉の長い指が神威を撫ぜる、もっと撫ぜて欲しいと思わせる手付きだった。
猫を撫ぜるように高杉の指は自然に神威に触れた。
「だから夜まで仕事?」
「上手い飯食わせてくれるところがある」
行こうぜ、と高杉の手が離れる。
離れた瞬間それが惜しいと思った。その指が惜しいと思ったから思わず縋るように高杉を見遣る。
しかし其処で神威は固まった。
思わぬ出来事が神威を襲ったからだ。

接触だ。
例えるのなら初めての接触。
手だけ、指だけ、そんな接触なら今までもあった。
けれどもそれは初めてだ。

不貞腐れて横になっていた神威に高杉が重なった。
掠めるような一瞬の口付け、一瞬なのに時が止まったように感じたそれ。
唇が神威に触れる一瞬、高杉は目を細めた。
普段揺れることの無い男の瞳が僅かに揺れた。
気まぐれなのか、ただ単に不貞腐れる神威への機嫌取りなのか、或いは何の理由も無くそれが、その一瞬がこの男の真実のような気がして、それがまるで永遠のように感じられて、その時それが初めて恋だと識った。

「出掛けるぞ」
神威が何かを云う前に高杉は立ち上がって部屋を出ようとする。
慌てて神威も立ち上がり今の口付けについて高杉の真意を問おうとしたが、ゆっくり廊下を歩む高杉の背中を見ていると問うのも莫迦らしい気がした。
高杉の身体をただ抱きしめたい。そんな衝動に駆られる。情欲の絡んだ激しいものではなく、自分は確かに高杉に情欲の混じった感情を持っている癖に、その衝動は清廉なものだった。
一瞬だけ交わった夜の逢瀬、夕方から宵闇に変わる一瞬の時間の出来事、それだけの情欲も何もない透明な何か。
その酷く透明な感情のようなものに神威は苛立った。
とても大事なものだ。今とても尊いものを高杉に貰った。
まるで一瞬が永遠のような幻の時間。透明な接触。
だからこそ汚せない、これを壊すことが出来ない。奪うことが夜兎の本質であるというのに、神威にはどうしてもそれが出来ない。
( 厭だな )
そう思う。
( これが初恋だって )
こんなものが初恋だなんて、冗談じゃない。それは心を荒れさせ、或いは一瞬で満たして、そしてまた渇望するそれが恋だなんて冗談じゃない。気が狂いそうだ。こんなに欲しいのに屹度高杉とは同じじゃない。自分だけが踊らされているようでそれが厭だ。
手にしたい、日に日に狂いそうになる。この恋で全て満たせれればいいのに。

「叶わないならいらない」

初恋は叶わないという。
叶わない恋をするくらいならあんたを殺した方がマシだ。
そう想いながら神威は高杉の背を追った。


初恋。
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