阿伏兎は困惑していた。
困惑していたというより最早危機を感じてさえいる。
神威だ。
阿伏兎は地に降り立った神威の背中を眺めた。

いつも通り。
いつも通り神威はものの一時間も経たぬうちに全てを破壊して仕舞った。
小さな星とはいえ、まだ残党を潰すのに幾日かかかるだろうが現状はほぼ全てを掌握したと云ってもいい。
この星に大した価値は無かったが有益な資源が発見されたのだ。だから夜兎が派遣された。
阿伏兎は何も無くなったこの星に立つ神威を眺める。
機嫌が良いのか神威は出鱈目な鼻歌を歌いながらじゃりじゃりと足を動かした。
少し近付いて見て見れば虫だ。
神威は硝煙の匂いに炙り出され地面から這い出てきた虫を一心不乱に潰している。
蟻塚を子供が潰している感覚だ。
無邪気に潰されるそれを尻目に阿伏兎は己の心配が杞憂だったかと息を吐く。
最近この主とも言える我侭な上司に変化を感じた。
神威とて子供から大人になるという云うなれば思春期、括弧笑をつけたくなるような年頃であるのだから年長者である阿伏兎が心配になるのも当然といえば当然であったが阿伏兎が何を云っても変わるわけでなく、また変わらない神威であって欲しいからそれでいいのだが、その僅かな変化が阿伏兎には引っかかった。
神威は楽しそうに目を細める。存分に手を血に染めて、小さな命を沢山潰して、食物連鎖の頂点に君臨しているような傲慢さを湛えながらまだ少年と言える年齢特有の残酷さを浮き彫りにしていた。
その神威の前にひらひらと飛ぶものがある。
阿伏兎はぼんやりとそのひらひらと飛ぶ物体を眺めた。
珍しく夜に飛ぶそれはひらひらと美しい。
目の前に恐ろしいものがあるとまるでわからないのか、それとも群れから逸れたのか、その蝶は神威の前を飛んだ。
( 哀れだ )
哀れだと思う。今の神威の機嫌なら矢張りあれを掴んで潰すのだろう。楽しそうにその羽を毟り地面に伏したそれを潰すに違いない。だからその美しい戦場の蝶が哀れに思えた。
神威はそれを暫く眺めたあとおもむろに手を伸ばした。
蝶を掴むかと思った手は蝶に掠ることなく空を掴むに終わる。

「・・・潰さないんですかい?」
じんわりと嫌な汗が流れる。神威のその愛おしむような仕草に阿伏兎は目を伏せたくなった。
わかりたくない、わかりたくなければ訊かなければいいのに、矢張り訊いて仕舞うのは阿伏兎の性分であった。
神威はその美しい蝶を眺めながら歌うように云う。
愛しささえ込めて彼は云うのだ。

「これはいいんだ、綺麗だから」

ひらひらとまるでそれは恋のように彼は云う。
神威がその言葉を云った時、阿伏兎は咄嗟にあの男を思い出した。否、思い出さない筈が無い。蝶の柄の入った着物の男。阿伏兎が警戒しているあの男。高杉だ。
神威は高杉に遭って変わった。
変わってしまった。
欲しいものを思うままに手にしてきた神威が、歩みをやめなかった神威が歩みを止めた。
じっと獲物を探るようにずっと高杉をみている。
注意深く用心深く神威は高杉を見ている。
阿伏兎の心配は杞憂ではなく確信に変わった。

( おいおい、止めてくれよ )
男が男に惚れるなとは云わない、男が男に憧れるのは力が物を云う世界でままあることだ。性的なことも含めて女のそれとは全く違った衝動であると阿伏兎は思っている。事実己が文句を垂れ流しながらも神威に従っているのも妙な意味ではなく正直に惚れている部分があるからだ。しかし神威のそれは危ういと阿伏兎は思う。
神威のそれはまるで女に惚れるそれだ。
男が男に惚れる仁義のような感情では無く、神威は高杉に惚れている。
そう確信した。
幸いなのは神威がそれをまだ理解できていないというところか。どちらにせよ最悪であることに変わりなかった。上司に変化をもたらしたのがよりにもよって辺境の星の侍とかいうあの男だからだ。あの地球で出逢った銀髪の男でなく神威が惹かれたのはもっと厄介なあの男だった。
神威は食べることと殺す以外の本能を動かしていない。恐らく性欲は神威の中で未だに低い。それを上回るほど殺人衝動が強いからだ。夜兎の本能に忠実とも云える神威の本能は阿伏兎にとって好ましいが、いつかは性欲を伴った感情が神威にも訪れると思っていた。夜兎の一族はあまり長生きでは無い。強い代わりに戦闘に明け暮れる所為か或いは陽の光を浴びれない所為なのか、長命のものは少なかった。故に性的衝動も一般的な人型の生物よりも早い。夜兎はわりと早期に子種を残す。星海坊主がデキ婚をしたあたりがそれを裏付けるいい例だ。最近では夜兎の純血の女など少ないからその機会は少ない、他で作ろうとしたら女を抱き殺して仕舞うことの方が多いから夜兎の種は減る一方だった。純血種と云うと彼の妹もその筈だ。数少ない純粋な夜兎、それもとびきり強い種だ。だからこそその妹に性欲的な何かを覚えるのは阿伏兎にも理解できた。事実神威は妹が自分の物だと思っている節がある。阿伏兎が自分のものであるように、そういうものだと神威は思っている。
だからこそ神威に恋愛など理解できる筈がなかった。欲しいものは当たり前に持っている。欲しいものといえば強い相手だけだ。
( 参ったね・・・ )
強い相手といえばそうだ。
高杉は強い相手だろう。神威も満足できるほどの力量があるに違いない。勿論力で夜兎が負ける筈が無い。けれどもあの男は切れる。頭が良い。だからこそ神威を楽しませるのだろう。自分だって機会があれば殺りあってみたいとも思う。
けれどもあの男だ。よりにもよって高杉が神威の想い人になるなんて計算外だった。
神威は高杉を始終目で追っている。別行動している今でさえ蝶に目を惹かれるほどに惹かれている。
( やりたいって云うだろうな・・・めんどくせぇ、 )
性的衝動を覚えるのも時間の問題だ。そして高杉は手強い。
逆に言えば直ぐ手に入れば神威の興味も逸れるのだが相手があの高杉では一筋縄ではいかなさそうだった。
そしてその相談を受けるのは阿伏兎なのだろうとも推測する。
想像してげんなりした。
( ガキのお守りじゃあるめぇし、 )
神威が感情に振り回されるままに癇癪でも起こしたらこれほど面倒なことはない。
いっそ自分があの高杉という男を攫ってきて手足を縛って神威の前に差し出せば事が早いのではないかとも思うがそれをすれば神威に殺されそうなのでやめた。それならば高杉を殺すという手も考えたがそれも後始末の面倒さと結局神威に殺されるという点から却下だ。
( 面倒臭ぇ、めんどくせぇ、噫、 )
欲しいほしいと強請っても手に入らないものに惚れるなんて面倒臭い。
自分ならそんなもの欲しがらない。
どれほど魅力的でも面倒なものには手を出さない。女ならわかるが、相手はいくら魔性の魅力があっても、ぐっと股間に何か感じることがあったとしても男だ。非生産的なことこの上ない。手に入らないものを欲しがるなんて時間の無駄だ。
「潰さねぇってなら、捕まえねぇのかい?」
高杉を捕まえて檻に入れて大事にすればいい。面倒だからそう云いかけたが阿伏兎は口を噤んだ。
神威は振り返らないまま蝶を眺め、ぽつりと言葉を零した。

「欲しいとは思うよ」
「なら、捕まえりゃいい」
神威はぼんやりとした覚束ない手付きで蝶に手を伸ばす。
掴もうと思えばいつでも掴めるのに、衝動のままに掴めば夜兎の力ではそれを潰してしまうのがわかっているのか慎重な動作だった。
蝶は神威のまわりをふわふわと飛ぶくせに神威の指には留まらない。もう少しで触れそうなのに触れることすらしないのがあの男らしくて阿伏兎は苦虫を潰したような顔をした。
「欲しいものなんて無かった、ああ、ひとつだけだと思ってたかな」
「ひとつ?」
「いや、あれは最初から俺のものだから違うか」
神威はそれが何かを云う前に否定した。自分のものだというからには恐らく彼の妹なのだと阿伏兎は邪推する。
どうも神威には倫理観に欠ける部分があった。しかし種が少ない今、そんなことは無視していいと阿伏兎は思う。兄妹間で子を成す例もあるのだから無問題であろう。無論、本人の意思は知らないが少なくとも神威は強い子を成す為に強い女と契るつもりなのは間違いなかった。それがあの妹であるのなら可哀想であったが阿伏兎はそれを否定はしない。実際そうなるとすればまず父親である星海坊主と星一つ潰すくらいの大喧嘩になりそうな気はしたがそれも今この場では黙っていた。
「欲しいと思うのに、留まってくれない」
それは蝶のことなのか、あの男のことなのか。
ひらひらと舞う蝶は目を愉しませる。愉しませてくれるから、神威はそれを捕らえない。力ずくで自分の物にしない。自分の物にすればその羽を毟ることになると悟っているからだ。蝶が殺して欲しいと捕らえてほしいと願わない限り神威には手が出せない。そしてそれは有り得なかった。滅びを願う蝶は神威によって滅ぼされることを望んではいない。
だからこそ手が出せない。せめて悪戯に壊さないよう神威は指を伸ばし触れてくれるのを待っている。
切実に待っている。

「けれどもあれは違う、あれは決して俺のものにならないんだ」

ぽつりと呟かれた神威の背が小さく見えた。勿論まだ子供なのだから小さくて当たり前だ。成長期なのだから放っておいてもその内大きくなる。しかしそういった意味ではない。神威はあの男を欲している。
阿伏兎はそれが無謀だと無駄だと云いたくなった。
あの男が手に入らないとわかっているのなら、諦めればいい。
あの男は過去にしか存在しない。
過去に大きなものを失って永遠に過去に生きている。
未来など無い生き方をする男に惹かれるのは無意味だ。
けれども神威に何も云えなかった。
欲しいといつものように云うくせに、手に入らないと同時に悟ってもいる。
神威の恋は恋を識る前に終わっている。
それが永遠だと、まるで永遠に恋であるようだとは云えなかった。
蝶は神威の周りをひらひらと飛び、そして彼方の闇に消えていった。


永遠に
恋であるように。
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