背中越し5メートル/※海月×山吹
「加部谷はとっても不思議です」
図書館で唐突に加部谷が呟いた。もう何度か彼女が繰り返し唐突に云う言葉だ。
「二人は親友なんですよね?とっても仲良しなんですよね?」
突っかかるように云ってくるので山吹は英訳をしていた資料と辞書から
顔を上げた。
「うん、どうかな・・・?まあ付き合いは長いけれど」
もう何度目かわからないがほぼ反射的に山吹は答えた。
うんうん、と何を納得したのか加部谷は勝手に頷いて言葉を続ける。
「じゃあ、どうしてこんなに離れているんですか?」
ずい、と加部谷は指を背後の海月に向けて伸ばした。
海月との距離は目測でおよそ五メートルほどだろうか。
「ごめん、云っている意味がよくわからない」
だから何だというのだろう?山吹は軽くこめかみを指で押さえた。
「つまりですね、二人は同棲するほど仲が良いんですよね!ラブラブなんですよね!要するにですね、
どうして一緒の場所に居るのに、こぉーんなに離れているんですかぁ?加部谷には信じられません!」
ああ、成る程、そういうことか、と納得するものの、此処は云わせてもらいたい。
「別に仲がよかろうが何だろうがそんなにひっついて一緒に行動しなくても
いいでしょうが、それは個人の自由だよ。あともう二つ追加しておくけれど、
僕は海月とは同棲していないし、ラブラブでもないよ」
それにお互い誘い合わせて図書館に行ったわけでは無い。
たまたま居合わせてたまたまこの距離なのだ。加部谷の云うような他意は無い。
「あー、そうなんですか、でもぉ、おかしいですよぅ、わたしこの前、海月君にそんなに寝泊りしてるなら
いっそもう山吹先輩と同棲したら、って云ったんですよぅ、でね、もしかしたら山吹先輩からオッケィが
出ないの?って訊いたんです。そしたら海月君、何て云ったと思います?」
急に小声になって加部谷が顔を寄せてきた。
「・・・わからないな、何て云ったの?」
その返事を待ってましたと云わんばかりに加部谷は喜々として一層山吹に顔を近付けた。
「『さあね』って云ったんですよ!あの海月君が!普通否定とかしますよぅ!もぅ、吃驚しちゃった!」
山吹は一瞬背後の海月を見た。海月はいつも通りこちらのことなど全く気にした風も無く
画集らしい大きい本の頁を捲った。
「へぇ・・・それは・・・驚いたな・・・」
これには少し山吹も驚いた。
普段の海月から想像するに加部谷のそんな問いには無言で何も答えなさそうなものだ。
しかしその海月が加部谷に「さあね」と返したことが山吹には意外だった。
その言葉にどんな意味が含まれているのか少し思考してみたが、
どれも無意味なことだ。
同棲するもしないも単に、お互い近くにアパートがあって、中学の同級生で、
山吹が食事に誘ったり、或いは海月が来たり、別に今の生活で過不足を感じていない。
それだけのことで、もし何か不都合があれば一緒に住むかもしれないし、住まないかもしれない。
しかし今はそれが必要無いだけの話だ。
特に何か特別なものがあるわけではなかった。
「だからですね、あっ・・・!」
加部谷が言葉を続けようとしたところでチャイムが鳴った。
授業開始の合図だ。加部谷は慌てて立ち上がり、「すみません、またあとで!」と云って
走り出した。海月は次の授業は空きなのか、はたまた出る気が無いのか、立ち上がる気配は無かった。

加部谷がいなくなって急に静かになった図書館で、しん、とした静寂に耳を傾ける。
後ろでは海月がまだ座って本を観ているのだろう。
広い図書館だ。他の人間だって沢山居るだろう。
けれどその静寂の中で、山吹は錯覚しそうになる。

これではまるで世界に二人きりみたいだ。
しん、とした静寂は海月そのもののように思えた。
山吹は再び辞書を手に英訳を開始した。ペンを指で回しながら海月との距離を考えた。
近すぎず、遠すぎず、それでいて居心地のいい静寂の距離。
加部谷はそれを不思議、と云ったが山吹はそうは思わない。
恐らく海月も思っていないだろう。
少しだけ振り返り山吹はもう一度海月との距離を確認した。


いいじゃないか、
背中越し5メートル、
それが僕達の距離だ。


<<<menu