羅刹の眠りが深くなるにつれ焦る。
魔王になるまではよかった。
彼は名実共に最強の男となり、この世界を一蹴できる存在になった。
幾千の時この瞬間を待ったことか、幾万の時、この男に成るのを
願い続けたことか、悲願達成に王手をかけたのだ。
それだけが己の望みであった筈なのだ。

「眠りが深くなったね」
背後に気配も無く立つ男は見飽きた顔の男だ。
直哉と会う時は本来の姿よりその時代に応じた人間の姿で
会うことが多かった。羅刹に引き合わせてからは専ら好んで
神無伎町で取っていた姿で居るらしい。
「肉体に負荷がかかっている、魔王になっても人間の機能は
変わらない、大きすぎる力に肉体が追い付かない」
目の前に横たわる弟は昏々と深い眠りに付いている。
一月ほど前から矢鱈に眠い、と繰り返し、徐々に睡眠の時間が増えた。
「まるで眠り姫だね」
「貴様でもそんな童話を知っているのか」
「まあねぇ」
揶揄するようにロキは肩を竦めた。
「ボクが王子サマなら眠っていても攫って犯ってしまうなぁ」
半ば本気めいた冗談を口にするロキの首を掴む。
「ジョーダンだって!本気だけど」
「二度と口にするな」
寝顔こそまるで人形のように、こればかりは神に感謝せねばなるまい、
まるで完璧な美しさを兼ね備えて羅刹は眠っている。
規則正しく、その薄い肉体を僅かに呼吸させながら、
ベルの全ての力を収束させ、それが一本の柱のように天まで光を
昇らせながら、その光の中ただ眠っていた。
アベルの優しげな美しさとも違う羅刹のそれは直哉の全てを眠りについて
さえ奪うようだった。
並の悪魔は触れることさえできない。
直哉や篤郎といった未だ人間の面子は触れられるようだった。
恐らく天使にも否、神でさえ最早その身体に触れることは出来ないだろう。
逆に云えば人間なら羅刹を殺せるのだ。
今、この瞬間、羅刹が眠りについてさえいれば
その胸を貫くだけで簡単に殺せる。
だからこそ高位の悪魔達が片時も羅刹の傍を離れずその眠りを守っている。
直哉が施した呪に従い、今この世で最も高貴で不遜な羅刹が
その強大な力を身体に馴染ませるまで守り続けるのだ。

「今回はもう一週間眠ってる」
「直に目覚める、峠は越した筈だ」
「天使共がいきり立っているよ、カイン」
カインという言葉にロキを射抜くような視線で睨む。
ロキは見透かしたように哂い、そして「噫、」と言葉を漏らした。
「カイン、いや、直哉、君はアベルではなく羅刹が欲しいのか」
見透かしたように云うこの悪魔を殺してやりたい。
「黙れ、ロキ」
「確かに彼は今までの誰とも似ない、似ていない、
誰にも交わらず一人凛と立つに相応しい、
まるで魔王に生まれる為に産まれてきたようにうつくしい」
その孤高が美しいのだ。人間だけでなく悪魔でさえも心惹き付けられて
離さない。羅刹は孤高であり、一人で生きていける種類の人間だった。
「必要なのは羅刹じゃない、君が、君こそが彼を必要としてるんだ、直哉」
が、と、音を立てロキの首に指を食い込ませる。
壁に叩きつけられたロキはそれでも尚楽しそうに口を歪ませた。
「それ以上口を開いてみろ、殺してやる」
ぎりぎりと喉を絞める。
「ボクは首を絞めたくらいでは死なないよ、カイン」
「貴様を滅ぼす術を俺が知らないとでも思っているのか、」
ロキは目を細めそして降参したように手を挙げた。
「直哉くん、君は確かに人間そのものだ、人間のその傲慢さと
愚かさと激しさに、その苛烈なまでの感情に敬意を表するよ」
「去れ、」
その言葉のままにロキは部屋から消えた。
回りの悪魔も下がらせる。
人間は直哉以外此処には立ち入れない。
誰も羅刹に手出しはできない。

ふと今此処で羅刹の首に手をかけたらどうだろうと思った。
確かに直哉には羅刹が、ベルの王たる羅刹が必要なのだ。
それ以上に羅刹という太陽が直哉には必要だった。
けれども魔が射す。あの時弟を殺したように、人の中の魔が射すのだ。
羅刹を殺せば、或いはそれは永遠なのだとさえ思えた。
その細い首に美しく昏々と眠る羅刹に手をかける。
「違う・・・」
同じことだ、同じことを繰り返すだけだ。
アベルを失ったように、今度羅刹まで失えば今度こそ己はもう己であれはしない。
「これは何だ・・・」
一体お前は俺に何を教えたのか。
真っ直ぐにいつだって真っ直ぐに直哉を見つめてきた現世の従弟である羅刹。
弟のように慈しみ、育て、そして傲慢のままに羅刹を痛めつけ縛った。
どれほど貶めようとどれほど痛めつけようと揺らがぬその視線に
己は全てをこの男に奪われたのだとそんな錯覚さえ起こす。
「羅刹、」
その頬に触れ、そして口付ける。

ならば此処に或るのは
「お前しかいないんだ」
縋るように手を伸ばせば、眠り姫のような弟の目がうっすら開いた。
「直哉」と掠れた声で形の良い唇がその名を紡ぐ、
御伽話のような光景の中、直哉は再び羅刹に口付けた。
倒れこむように激しく、深く、そして沈むように
何処までも深く、深く堕ちるように、
そして底に或るのはただ一つ、



ならば愛しかない
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