※魔王ルートED後。


勉強をすると決めたのは八十(やそ)というより
篤郎の方だった。
魔王に成って、世界がどんなに変わっても自分たちは
まだ高校生で17歳だ。せめて高校卒業くらいの知識は欲しい。
今更社会の尺度に合せても仕方無い。
それはわかっている。
けれども不意にやらなければいけないかな、と思った。
八十(やそ)に提案してみると「それはいいね」と
珍しく(このところ少し憂いの表情が増えた)晴れた顔を
して微笑んだので、矢張りこれで良かったのだと思う。

八十(やそ)は、親友は高校レベルの知識なら疾うに
あるだろう、苦手教科を差し引いても十分な学力の筈だ。
口にすれば「そんなことないよ」とこの控え目な友人は
云うだろうけれど、篤郎の目から見ても、流石は
直哉の従弟であるとしか云い様の無い深い知性を湛えていた。
けれども今隣で穏やかに、学校に居る時と変わらず
優しさを滲ませて静かに教科書を開いている八十を見ると
安堵する。

あの日、
あの夜、
直哉に着いて行くと決めた八十に少なからず動揺したのは
篤郎だ。
あれほど護ると決めていた、
あの状況下では今にして思うと本当に柚子が居てよかった。
でなければきっと八十も篤郎も一歩も動けなかった。
なのにあれほど護ると決めていた柚子は離れて仕舞った。
( 彼女は無事に帰れたのだろうか )
無事で在って欲しい、日常へ戻ることを望んだ彼女が
できれば幸せに、暖かい布団で眠り、穏やかな日常へと戻り、
否、穏やかな日常はもう無理かもしれないけれど、
世界がこうなって仕舞ってはそれも望めないかもしれないけれど、
それでも幸せに成って欲しかった。
既にどうやったって日常へ戻れない自分たちの分も
幸せに生きて欲しいと願っている。
「次は数学」
「二学期からの分だよな」
「そうだね」
わからないところはだいたいマリ先生か直哉さんに訊けばすぐに
わかる。今こうして会議室を利用して
二人で机を合わせて勉強しているのもなんだか不思議な話だ。
「塾みたいだ」
「塾?行ったことが無いけれどこんな感じかな?」
「俺も行ったことない」
そう云えば八十は、ふふ、と綺麗に小さく笑った。
花が綻ぶような笑顔だ。
それだけで、この物静かな友人がそうしてくれるだけで
篤郎は胸の奥がじん、と暖かくなった。

「篤郎は」
自然に八十が切りだす。
「篤郎は俺に、兄さんに付いてよかったのかな」
こういう話を八十は酷く自然に切り出す。
大事なことを融け込むように話す友人だった。
「・・・良かったよ、今はそう思ってる」
八十は黙って篤郎を見た。
教科書の開かれた頁にシャープペンを挟む、
ノートには綺麗な字で数式が書いてあった。
「決して迷いが無かったわけじゃない、でも俺は今は良かったと思ってる、
最初にルナに、八十に云った通り、友達だから、俺はお前の友達だから、
それじゃ理由にならないか?」
いつかの問いに同じように答える。
迷わなかったと云えば嘘だ。
願わくば直哉の手を取って欲しく無かった。
それが本音なのかもしれない、
でも八十は兄の手を取って仕舞った。
慄える手で、慟哭に呑まれそうになりながらもそれでも直哉の手を取った。
迷った悩んだ、どうしようもない焦燥に駆られた。
それでも友達だから、友達だから付いてきた。
八十は一瞬驚いたような顔をして、
それからほっとしたように優しく笑った。
「うん、有難う、篤郎、」
篤郎が居てくれて良かったと小さく呟かれた言葉に
また胸が熱くなった。

コンコン、とタイミング良く会議室のドアがノックされて、
八十がどうぞ、と云えば直哉が入ってきた。
持ちこまれた盆の上には暖かい紅茶が入っている。
ちゃんと篤郎の分もあるようだった。
茶菓子も一緒に持ってくるのだから全く卒の無い人である。
「休憩したらどうだ」
朝からずっとだ、今日は開始が早かったから(朝の7時だった)
もう4時間も経って仕舞っている。
そっと八十の頬に触れ(壊れもののように大切そうに触れた)
八十の勉強の進み具合を見る。
此処がわからない、と八十が教科書を指せば、
直哉はそれに丁寧に優しく応えた。
篤郎はその光景に、
おかしいけれど、
こんな世界になっておかしい筈なのに、
当たり前にある日常の風景を見た気がして、
不意に笑って仕舞った。


( そうだな )
( 俺は幸せを願ってる )
( その幸せの為ならどんな犠牲も厭わない )
( 柚子も、八十も、 )
( 幸せにならなきゃいけないんだ )


それが掴めないほど
遠くても

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