※直哉24歳、主人公=北条 八十(やそ)17歳。
アダ名=ルナ(篤郎命名)


「ルナの髪結構伸びたよな」
と不意に傍らの友人に云われてそれまで気にも留めていなかった
八十(やそ)は首元に触れてみた。
成る程、確かに少し伸びたようだ。
「もしかして伸ばしてる?ルナの毛さらさらだもんなー」
にこやかに笑う篤郎に八十(やそ)は曖昧に微笑み、
違うよ、と静かに答えた。
「そういえばいつも何処で切ってるんだ?」
俺は近くだけれど、と話す篤郎に八十は、うん、と短く答えた。

「従兄(あに)が、直哉が切ってるんだ」

そっと微笑む八十に篤郎は一瞬驚いた顔をしてから、
そして「うん、そっか、ナオヤさん器用そうだもんな!」と笑った。
「それ、昔から?」
「うん、小さい頃からずっと直哉が切っているよ」
へぇ、と感心する篤郎と駅で別れてから八十はたった今話題に上がった、
従兄である直哉へ電話をした。

もう5月にもなるというのに従兄である直哉は相変わらずで
定期的に大学の研究室へは顔を出しているようだったが
殆どをこの青山のアパートのパソコンの前で過ごしている。
何をしているのかは専門的すぎて八十にはわからない。
けれども直哉は八十が居る時は八十の存在を疎かにはしない
人なので多少の遠慮はあったが、「遠慮はするな」と常々明言されて
いるので、邪魔にならない程度にそれぞれ思い思いの時間を
お互いに過ごすことにしている。

「襟足が伸びたな」
直哉が不意に八十の髪に触れた。
優しく、高価な美術品に触れるような丁寧な手つきだ。
思えばこの従兄は幼い頃からずっと八十に対してそうだった。
優しくて穏やか、時にそれは酷く深い静寂に満ちていて、
その空気が八十は好きでこの兄から離れたくないと駄々を捏ねたものだった。
「そういえば今日学校で篤郎にも云われたよ」
「そうか」
切るか、と直哉が用意をし始める。
八十は手にした本から顔を上げ、静かな聲で直哉に尋ねた。
「変わってるのかな」
「俺がお前の髪を切ることか?」
呟きひとつで解って仕舞うのだからこの兄に隠し事は出来ない。
云、と八十は短く頷いてから続きを口にした。
「今迄これが当たり前すぎて変だ、なんて思ったこともないけれど、
やっぱりおかしいのかな、俺も普通にお店に切りに行った方がいい?」
そっと尋ねれば兄は「莫迦なことを、」と八十の髪に触れた。

「俺はお前が誰かに触れられることなど耐えられない」
耳元で兄が囁く、八十はその言葉に睫毛を慄わせた。
「髪一筋とて赦さない」
そうだ、昔から、ずっと昔からこの兄はそうだった。
幼いころから八十に触れるものを赦さなかった。
父や母などは仕方無い、けれどもその他の一切を許容しなかった。
八十自身が、兄と同様に人を惹きつけるものだったから、
怖い目にも沢山あった。
その都度兄は相手を八十の見えない場所できっと酷い報復をした。
(現場を見たことは無いが、いつも八十に近付いた相手は皆いつの間にか
姿を消していた)
そういったことがあってからずっと八十は誰かに触れられるのを
反射的に避けるようになった。
それからは多分そんなことは無かった筈だ。
八十はそうして人からずっと距離を取ってきた。
幼い頃はそうした兄の過保護が嬉しくて、
この綺麗で優しくて何でもできる兄が自分にだけ特別に愛情を
注いでくれることが嬉しくて誇らしく思ったものだった。
けれども年を経ていくごとに、八十の中で八十自身の精神が
形どっていくにつれてそれが他とは違うのだと認識した。
八十はこの従兄の造る世界の中でのみ息をするのを赦される。
時々自分はこの従兄の作品なのではないかとさえ思える時があった。
直哉は八十に優しく触れるくせ、その言葉は重く深い。
それを少しだけ息苦しく感じることはあっても、決して不快ではない、
ただ、時折自由になりたいとも思う、けれども
もっと深く兄の造る海に溺れていたいとも思う。
八十はゆっくり眼を閉じる。
「そう、」
「そうだ」

優しく、優しく直哉が八十の髪を梳いていく、
丁寧な手つきで慎重に八十の髪を切って往く、
そして八十はぼんやりと想った。
きっと直哉は八十を殺す時も優しいのだろうと、
この兄が八十を殺す事など在る筈も無いのに、
酷く優しい手つきで自分の心臓を突き刺す、
そんな兄の姿がただ浮かんだ。
そうして八十は静かに死んで逝くのかもしれない、
兄の腕に抱かれ、最期まで優しい兄だけを映して、
漠然と宿るこの気持ちがなんなのか八十自身よくはわからない、
ただ、もしかしたらそれが
愛と呼べる種類のものなのかもしれないと、そう思った。


狂おしい愛、
もしくは感情
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