※直哉=23歳、主人公=北条 八十(ほうじょう やそ)16歳。


従兄(にい)さん、と従弟が声をあげる。
二人きりの時は直哉と呼ぶが誰かがいるときは
必ず畏まった口調で従兄さんと呼んだ。
これは北条の家のきまりであり作法である。
義母の躾もあってか、こういった区切りを確り付ける弟だった。
実際幼い頃、まだ小さな従弟が直哉のことを
「なおや」と呼んだ時、(これは直哉が八十(やそ)に
直哉と呼ぶように躾けたからだ)
やんわり義母にたしなめられていた。
以降、八十は決して二人の時以外では「直哉」と呼ばない。
義母も直哉のことは家では直哉さん、人前では
直哉、ときちんと区切りを付けて呼んでいる。
そういった家風が自分たちを育てた。

襖があけられ、従弟と一緒に
家の手伝いの者が入ってくる。
引っ越しの準備をしているのだ。
直哉から云っても良かったが昨夜義父から八十に伝えられたらしい。
八十は少し黙って、分かったとだけ答えたそうだ。
「これを運んでくれるか」
はい、と返事をしたのは普段は庭師をしている中野という初老の男で
たまに大仕事の時に顔を出す中野の孫だと云う若い男が入ってきて
てきぱきと積まれた荷物を片付けていく。
「坊ちゃん、これは?」
「それも運んでくれ」
衣服やら何やらは義母が荷造りをしてくれた。
さして荷物がある方でも無いので、これを青山の住居まで
運んで貰えば引っ越しは終わりだ。
青山の方にはもう注文した家具などは届いているので
直ぐにでも新しい家で生活できそうだった。

「どうした?」
先程から黙りこんだ従弟の頬をそっと撫でれば、
別に、と言葉を返される。
「寂しいか?」
「少し」
幼い頃から付きっきりでずっと一緒だった。
直哉の部屋の布団で寝る癖は今も続いている。
(義母が呆れて八十の布団を直哉の部屋へと用意した)
離れることなど聴かされていなかったら驚きもあるのだろう。
直哉は、問題ない、と言葉を繋げた。
「問題ない、少し片付けたいこともあるからな、だがそんなに長くはない」
どうせ来年の夏にはそれどころではなくなる。
「週の半ばと週末は俺の家に来れるように義父さん達にも云っておいたから」
「学校は?」
「車で送るさ」
少し顔色が明るくなった。
わかりやすい反応に弟の手を繋ぐ。
大丈夫、問題ない、と云えば弟は漸く頷いた。
「俺、駄目だな」
「何故だ?」
「直哉がいなくなるってきいて少し怒ってた」
「ほう」
「一番に俺にいわないで父さんに云ったのも実はまだ怒ってる」
そういう大事なことは一番に教えて欲しかった。と拗ねる様が
なんともいじらしくて直哉は笑って仕舞った。
こういったところは幼い頃から何も変わっていない。
「それは済まなかった」
腕に抱き込めばおとなしく直哉の胸に顔を埋める。
そっと髪に鼻を埋めればシャンプーの香がした。
「ではどうしたらお前の機嫌は治るかな」
「・・・音楽プレイヤー、」
おや、この無欲な弟にしては珍しく、おねだりだ。
弟のそんな姿に直哉はいよいよおかしくなった。
「どうせ聴くのはクラッシックだろう」
幼い頃からピアノをやっている所為でその分野には明るい。
「今聴いてるカノンが好きなんだ、篤郎とか柚子は皆プレイヤーを
持ってて、ちょっと羨ましかった」
髪を撫ぜて、優しく、「了承した」と云えば
今度こそ機嫌が治ったらしい弟が直哉を見上げる。
この世界で直哉にご機嫌取りをさせられるのは八十しかいないだろう。
「ついでに新しいノートPCも買ってやる」
編集に要るだろう?と云えば、
弟はさも当然のように頷いてみせた。


おねだり
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