※直哉20歳、主人公=北条 八十(やそ)13歳。


八十(やそ)にとって直哉は
理想の兄であった。
いつも優しくて八十を理解してくれ
とても賢くて何でも出来て、友達が沢山居て、
何より八十を一番大事にしてくれる。
幼い頃から嫌いなものもこっそり食べてくれるし
夜中目が覚めても傍に居て大丈夫だよと
手を握ってくれる。
八十のわがままも笑って聴いて呉れる。
そんな従兄(あに)が怒ったところなど
見たことも無いし想像も出来なかった。
自慢の兄で理想の兄、それが世界の全てだった。

厳格な家で、父も母も優しかったが何より
しきたりと家名を重んじる。
そんな家で独りだった八十(やそ)に
この従兄が現れた。
本家(というのがどういうものなのか八十にはまだ
よくわかっていない、だがそれが凄いことは理解していた)
の跡取りである直哉は不慮の事故で両親を失い
まだ12の時にこの分家である八十(やそ)の家に来た。
其処から全てが始まったのだ。

「北条、」
呼び止められる。
中学にあがってから八十にも新しい友人が増えた。
大学までエスカレーター式の私立である。
見知った顔も多いが外部からの入学者も少なくは無い。
だから新しい友人との出会いは楽しかったし、
それなりに学内では上手く付きあってもいた。
「今日帰りどっか寄ってかない?谷川とか女子も一緒にさ」
そんな言葉を八十に掛けたところで、
名指しをされた女子が声をあげた。
「八っちゃんは無理だよ、お稽古だもん」
「柚子、」
静かに話す様が如何にも育ちの良い少年を醸し出す
八十は幼馴染に振り返った。
幼馴染の谷川柚子は中学にあがっても仲が良く、
未だに八十のことを小学校の時からの呼び名で『八っちゃん』と呼んでいる。
「うん、ごめんね、柚子の云う通り殆ど習い事で埋まってるんだ」
「そんなに?」
やや驚きを込めた声で問えば、再び八十は
ごめんね、と申し訳なさそうに云った。
「事前に云って呉れれば先生にお断りもできるんだけれど、」
「武道に習字に、お華にお茶に、八っちゃん家は凄いんだから」
柚子がクラスメイトの少年に誇らしげに云い放つ。
「此処に入る奴、凄いと思ってたけど、北条のは筋金入りだな」
「家なんて凄くおっきいのよ!」
八十(やそ)の家自慢を何故か柚子が云う様を隣で申し訳なさそうに見て、
そんなことないよ、と八十(やそ)が困ったように微笑んだ。
「じゃあ、来週はどう?」
カラオケとか、なんて懲りずに誘うと
八十は少し目を泳がせて考えるようにしてから形の良い
唇を開いた。
「従兄(あに)に聴いてみるよ」
「お兄さん?どうして?」
「少し心配症の従兄なんだ・・・」
許可が貰えたら是非、と曖昧に微笑んで八十は机の上の
教科書を鞄に仕舞った。

校門を出たところでクラクションが鳴らされる。
その音に気付いて辺りを見れば従兄である直哉の車だった。
「近くを寄ったから来た」
「そう、有難う」
サイドシートに弟が座ったのを確認してから直哉は車を出す。
「今日は先生が休みだそうだ」
え?と八十が兄を見る。
「身内に不幸があったとかでな」
「そうなんだ、じゃあ勿体無いことしたかな」
「何故?」
「今日友達に遊びに行こうって誘われたんだけれど」
「へえ」
興味深そうに直哉は八十の話を促す。
「カラオケだって、行ったことないよ、直哉はある?」
「まあ、あるかな」
別にいいものでもないぞ、と少し鼻を鳴らして
ハンドルを切り学校の塀の角を曲がる。
「来週にって云われたんだけど、」
「やめとけ、そんな処に行ったと知れたら義父さんに俺が叱られる」
「ん、わかった」
少し残念そうだがそれも仕方無い。
厳格な家だ、父も母もあまり良い顔はしないだろう。
こうして毎日学校へ通って、学校が終われば自宅に教師を招いて
習い事づくめの毎日だったが八十自身それが当たり前の
ことなのであまり疑問を抱いたことが無い。
何より兄である直哉もあまり八十が外で遊ぶのに
いい顔はしなかった。
「代わりに」と兄が続ける。
「代わりに今から買い物に連れて行ってやる」
「義母さんには俺から云ってある」
八十は嬉しそうに顔を上げる。
そんな弟の様子に直哉は目を細め、
そしてゆっくりとアクセルを踏み込んだ。


理想の兄
menu /